分かち合いを象徴として見る
「分かち合い」という言葉の響きは、何かよい気持ちになります。
「分かち合い」の印象では、自分のもっているもの、あるいは他人のもっているものを分散して、ともに持ち合うような感じと言えますが、しかしそれは文字通りに解釈した場合のことです。
タロットを学んできますと、物事を「象徴」で把握するという技術が発達します。
象徴でとらえるということは、抽象的な思考にはなるのですが、それだけ把握する範囲が拡大することでもあります。
言い換えれば、関係性の視点が増すということです。
なぜそれがいいのかと言えば、関係性の視点が増加するので、今まで全く無関係なものや、発想として思いも至らなかった分野まで関連が出てくるようになるのです。
いわゆる発想の転換が起こったり、ひらめきが生じやすくなったりします。
さて、「分かち合い」ですが、これも象徴的に考えますと、「分かち合う」ことが単にモノを分け合うということだけには留まらなくなります。
人としての体験・経験(感情も含む)の分かち合いということもあるでしょうし、もっと言えば「助け合い」に近いことも想定できます。
すると、「伝え合う」「教え合う」ということも分かち合いの一種ではないかと見ることもできます。
人には互いに得意な分野や好き嫌い、個性があり、それぞれが別の人生(体験)を味わっています。その人の感覚でなければわからないことがあります。
あくまで個人的な想像ですが、私たちは死後、生前に経験したすべてのデータを、全人類の「魂の記憶庫」のようなものにアップロード(記憶庫側からすればダウンロード)するのではないかと思っています。
その場合、個人として細かく分かれていたほうが、ひとつひとつの規模は小さくても多様なデータを無数に集めることができます。
最終的(ではないかもしれませんが)な「分かち合い」は、このデータベースの共有とも言えますが、生前でのデータもなるべく交換し合ったり、たくさんのデータと混ぜ合うことで、より複雑なものにデータを変えていくことができると考えられます。
ということで、生きているうちに、自分の個性をより認識し、違う人との個性とふれあうことで、自分自身の体験も増やすとよいと思われます。
これは別にライブのふれあいや交流をしなければならないというのではなく(そのほうがデータの融合・変化の度合いは大きいと考えられますが)、本を読んだり、インターネットで人の情報に触れたりする間接的なものでもよいと考えられます。
ただ「分かち合い」の観点から言えば、何かしら「自分」として人や集団・全体に貢献している認識が伴うと効果的でしょう。
というと自分から発信したり、伝えたり、積極的に押し出したりするようなことが必要かと誤解されそうですが、この世界には能動と受動の陰陽二種原理が働いています。
ですから、自分が能動の立場だけではなく、受動として貢献する場合もあることを想定することです。
どんな人でも片方だけの表現でいることは不可能です。
例えば、あなたがセミナーを受けること(受動)によって、セミナーをする人(能動)に貢献することになりますが、それが有料ならばあなたがお金を支払う(能動)ことで、セミナーをする側はエネルギーを受け取る(受動)ことになります。
たとえセミナー講師が一人で受講者多数であっても、それは「分かち合い」であることに気付くことです。
表現方法とエネルギー量は異なっても、それぞれの経験・知識・心、言い換えればエネルギーを分かち合っているのです。
そして一番重要なことは、分かち合えていることの喜びを自覚し、自分の中に大小はあっても、どの時(どんな立場、地位・名誉・経済力等に関係なく)「愛」(の交換)があることに気がつくことなのです。
余談ですが、「分かち合い」という言葉の音には「あい」という音が入っているのは興味深いところですね。
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