「審判」に見る情報の扱い
2/7にブログデザインを新しくしましたが(アメブロのほうです)、タイトルは変えていません。
それは本当に私にとってはマルセイユタロットは「煌めき(きらめき)」のごとき存在だからです。この「煌」の漢字にも意味を持たせています。
あと、新たに「ONE-ALL」という文字が追加されているのにお気づきの方があるかもしれせん。もちろんこれにも意味があります。
これは私がタロットを使ってお伝えしていく考えの中で、重要なエッセンスが表されている言葉なのです。
「ONE-ALL」について、もしこういう意味ではないか?と気がついた方がいらっしゃったなら、コメントとかメッセージくださるとうれしいです。私の考えるこの言葉の意味というのはありますが、実はこういうのには正解はなく、あなたが思いついたそれ自身も答えなのです。
ブログヘッダーには、ほかにも「虹」とか「鷲」などが象徴的に配置されています。タロットを学ぶ人には、たぶんわかることだと思います。
さて、最近思ったことを「審判」のカードに関連させて少し書いてみたいと思います。
「審判」の天使の背後には鋭い光芒が描かれています。
現代はインターネットとその機器の発達によって、膨大で迅速に情報が行き交うようになりました。これは「審判」の天使や光芒の絵柄そのものと言ってもいいかもしれません。(もちろんこのカードの、霊的な別な意味もあり、光芒も本来の意味があります)
情報が飛び交うその中で、私たちは何を選択すべきか、あるいは選択させられているのかを考えることは重要です。
私たちの置かれている状況は、意識・無意識を含めて、まるでこの「審判」の天使の背後の光芒のように、無数の矢のような情報シャワーを受けているようなものと言えます。(数や量が少ない段階や、より個別的な状況では「恋人」カードの矢になります)
その中にはまさに天使の情報もあれば、悪魔の情報もあるでしょう。「審判」には本来、天使や神の情報しかないと考えられますが、象徴的にいえば悪魔(神に近い存在としての)のものもあると見ることもできます。
ところでSNSでは、有益な情報もありますが、デマも多いです。それが前時代よりも巧妙(もっともらしい)かつ、規模の広がりとスピードがまるで違うことが特徴と言えます。それだけ利益と被害の程度が、昔より別次元なのです。
一方、デマか事実かがわからず、あるいはどちらかを決める性質のものではなく、単に情報として流されているものもあります。
さきほど、「情報を矢のように受けている」と表現しましたが、そう、私たちは情報の矢にたくさん当たることによって、実はダメージや刺激を知らず知らず受けているのです。
言ってみれば鈍感になるか(当たりすぎて)、逆に非常に過敏(ナーバス)になるかです。
そういうことで、実際に起こってくるのが、情報を一切認めない、あるいは何が来ても無反応のような状態になるか、反対に必要以上に情報を気にしすぎるようになるかになります。
前者は堕落・詐欺被害の道に近づきやすくなりますし、後者は自分で必要のない枠や制限・ルールを生み出し、それらに縛られるようになります。
たとえば、前者は本当は買いたくないものまで簡単に買わされるようになり、後者の人は、政府や組織、企業、医師、教育者、販売されている食品や日常品のあらゆるものを疑い、善悪二元論の見方だけになり、精神的・体力的免疫力を失います。
マルセイユタロットで例えれば、運命の輪の「猿」と「犬」です。
「審判」のカードをよく見ると、棺桶のようなところから立ち上がっている人物がいます。自分自身で立ち上がっているところがポイントです。(見守る二人の人物もいます)
自分の中の神性・力を信じること、これが大切なのです。
情報はあくまで情報です。それがすべてではありませんし、ひとつの情報の中にもたくさんの事実と誤認があるものです。また、やはり自分を守ったり、気付かせてくれたりする有益なものもあります。
情熱(好奇心)と冷徹な目の両方をもって、情報の矢に打たれ強く、コントロールできる「自分」を持ちましょう。
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