学びにおける質問の重要性
私はマルセイユタロット講座の講師をしています。
するとやはり、タロットと言えど、教えられるだけの一方的なものの見方から、双方の立場として見ることが増えてきます。
ところで日本に住む私たちは、ほぼ誰もが義務教育の課程として学校に通います。最近は大学まで進む人が多いですので、生徒、つまり「受講する側」としてはかなりの期間を過ごすことになるわけです。
言ってみれば、学ぶ側のスタイルというのは、この学校時代に身についてしまうのです。
最近の学校はどうかわかりませんが、私の学生時代を見ましても、授業というものはただ先生が「黒板に説明したいことを書いて話す」というもので、生徒もひたすらノートにそれを書きまくるという形式が多かったように思います。
今後はタブレット型の機器などの普及で、そうしたスタイルも変わってくるとは予想されます。
とは言っても、今のほとんどの大人の人は、黒板やホワイトボードに書いたものを写し、試験前になってそれらを暗記するという勉強のやり方に慣れていると想像できます。
そして最初に戻りますが、私が教える側の立場になった時感じたのは、学生時代、もっと先生に質問すればよかったというものです。
授業のスタイルの全体的な問題は、確かに簡単ではないものが日本にはあると思います。今の状態が、いいか悪いかは賛否両論でしょう。
ただ、個人レベルで見た時、少なくとも質問はもう少ししても良いのではないかと思うのです。
先生も機会が与えられないと、進行は先生のスケジュールと思いによって行うしかなくなってきます。
ここに、もし生徒さんからよい質問が出ると、先生も答えざるを得ませんし、その質問と回答自体が当事者だけではなく、聞いているほかの生徒さんたちにも学びとなることが多いのです。
先生のほうでも、簡単には答えられないような質問が出れば、さらに精進する必要性に迫られ、より高いレベルへと自分を誘うことができます。
そして生徒さん側も、質問するという行為が勇気と自信を自らに与え、学びを受動的なものから能動的なものへ変えることができます。
質問するためには授業の内容に関心と興味を持たねばならず、また質問をして行くことにより、質問の投げかけ方・まとめ方(構成とか話し方等)もレベルアップしていきますので、物事の本質をつかむのが早くなり、おそらく外国語さえ学べば、国際的にもコミュニケーション技術は向上するものと考えられます。
質問は自分のわからないところを明確にします。質問力が上がると、漠然とただ外から流される人生ではなく、主体的に生きる力が与えられます。
質問の根源ともいえる「なぜ?」という問いかけ、これがあらゆるものを深く叡智あるところへ導くのです。
そもそも大きな質問テーマとして、私たちはなぜ生きているのか?存在しているのか?というものもあります。
あまり考えすぎるのもよくありませんが、内外に興味と好奇心を持ち、問いかけていくことは人生の質を高めることになると私は思います。
マルセイユタロットを教えるようになった時、今まではそれほど意識していなかった事柄でも、人に伝える段階では、「果たして、なぜこのような意味なのか?」というようなことを知らなくてはならなくなりました。
そうして、自分なりに文献や資料などを調べ、誰かに聞き、時にはタロットの精霊そのものからインスピレーション的に伝えられたことで、やっと人にタロットを教える立場となったのです。
結局、自らの疑問・質問に自分で答えを見つけようと模索・探究・行動する時、必ず何らかの道筋・指針・回答が得られるものだと思います。
たとえ明確な回答が得られなかったとしても、その過程こそが自分を成長させることは間違いありません。
何かの学び・学習をしていこうと思う方、現在している方は、学校時代の受身の方法から脱却し、積極的に質問をする、または自らに問いかけるような意識で臨まれるとよいと思います。
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