自分が新しくなるという表現
セラピーを受けたり、癒し・サポート的な仕事に関心を持つようになったりしますと、ある変化が生まれます。
また精神世界やスピリチュアル系と呼ばれる人たちでも、似たようなことが起こります。
それは、「いつも自分が新しくなっている」という思い(あるいは期待)です。
これをあえて悪く言いますと、思い込みから来る「新しくなりたい病」「自分は人とは違っているのよ」的な期待の裏返し表現ということもできます。
こういうタイプの人のブログやSNSの発信などを見ましても、「変わりつつある自分」「新しい段階に来た自分」「またひとつの気づきを迎えた自分」・・などという言葉を、頻繁に見つけることができるでしょう。
人間はそんなにいつもいつも大きく変わるものではなく、微妙なアップグレードとダウングレードを繰り返している存在だと見ることもできます。
従って、大げさに「また変わった!」「新しい次元にキター!」などと騒ぎすぎているのも、どうかという思いがあります。
やはり、冷静に本当の変化やステップアップする自分の、内的に見分けていく観察眼も必要でしょう。
本質的な変化と表面的な変化の見極めと言い換えてもよいです。
と、ここまで書くと、なにやら変化やフレッシュな気づきに否定的に言っているように思うでしょうが、実は今日言いたいことは逆なのです。
ただし、その発想が少し違います。
自分が新しくなることを頻繁に思う、書くということは、一面はそうなりたいけれども、あまりなっていない自分への裏返し表現のこともありますし、たいして大きな変化でもないのに、大げさに言ってしまっている(注目してほしい、人と違う自分をアピールしたいなどの)ところもなきしもあらずだと思います。
しかし、よく考え見ると、日常生活でただ流されるままに生きている時よりも、何か学びをしたり、セラピーを受けたりすることで、「自分の変化」というものに、意識をこれまで以上に及ばせる時、やはり、常に「変化」「新しさ」というものに注目しないわけにはいかなくなります。
そう、大げさだろうが、できてないことから来る裏返しの願望であろうが、とにかく「変わる自分」「新しい段階へ進む自分」という「概念」「コンセプト」に関心がある状態になっているのです。
人には、意識するものに対して、情報をより多く採り入れる機能があります。さらには、採り入れた情報による現実の創造も、その関心度合いによります。
簡単に言えば、「変わる」「新しくなる」「今よりも、もっと幸せになる」などの「関心」と「意識」を持てば、それを現実化させることは、まったく意識していない時よりもかなり違ってくることになるということです。
マルセイユタロットを学んだ人も同じです。
マルセイユタロットには自己の変容や完成の道筋・アプローチ、及びその象徴的方法が描かれています。
言い換えれば、今の自分をよい意味で変えていく絵図です。ですから、マルセイユタロットを活用していく場合、新しくなること、気づきのあること、成長することは普段でもずっと意識していくことになります。
そうすると、「あなた、この前も成長したとか、新しい自分になっている、と言っていたけど、今日もそうなの?」と人に言われるほど、「新しい自分」が何回も訪れるようになるのです。(逆に言えば、人の変化にも敏感になります)
もちろん、例えば昨日の「春分の日」など、時期的に見た変節点や重要な変化ポイントもあります。それと同時に、自己の変容ポイントも無数かつ限定的に存在します。
無数かつ限定的というのは、大きな節目と毎日や毎時間のような細かな変容ポイントということです。
人間の細胞も常にリフレッシュされているように、どんな小さな局面でも、また大きな宇宙的規模においても、すべてが新しく生まれ変わっています。
ただ気がつかないだけなのです。
ということで、誰かが「自分は変わった」とか、「新しい段階を迎えている」「大きな気づきがあった」と言っている時は、本当は祝福されるべきことなのです。
しかしながら、注意したいのは、それが人や外への依存や洗脳になっている場合です。
自分はそう思わないのに誰かに強く言われたとか、言わされている(本人は意識なくても)とか、ある組織や団体に入ることで、さも変わったかのように思い込まされているようなケースですね。
何事もバランスというは大事です。
変化していることは、何かを捨てたり、切らねばならなかったり、終わらせたりする必要もあるわけです。「楽しい」と感じることばかりが変化や新しいこととは限りません。
また維持していくこと、守っていくこと、安定していくことも、特に日常的には大切です。
何を守り、何を捨てるのか、これが人には自由意志でできることが、神(神性なる自己)の愛だと例えられるでしょう。
コメントを残す