受け入れることを「斎王」に学ぶ
本日、マルセイユタロットのことを考えていますと、「斎王」(ほかのカードの一般名称では「女教皇」)が特に気になりました。
そうすると、あるメッセージ的なものも心の中で浮かび上がってきます。まるでタロットから言葉や智慧を伝えられているかのような感覚です。(これは逆から見れば、自分の中に存在していたものが、タロットという象徴図柄を通して整理され、取り出されたと考えることもできるのです)
余談ですが、タロットを扱うようになって、このようにして私はインスピレーションを受けたり、物事を整理したりすることが増えました。
タロットから示唆を得る方法としては、ある法則に基づくタロットの並びや展開(これをスプレッドと言います)からの解釈もありますが、カードを並べなくても直接カードから得られるやり方もあるのです。(それにはタロットの表す象徴性を学ばないと、効力は十分に発揮されません)
むしろその方が、「自分使いのタロット」としては有効なのではないかと思っているところもあります。
さて、話を「斎王」に戻します。
「斎王」にはその絵柄の特徴から、「受容性」ということが主なテーマとして象徴されてきます。(もちろん、ほかにも多くの意味があります)
「受容」をそのまま平たく書き換えれば、「受け入れる」こととなります。
しかし私たち人間は、なかなかの素直に物事や他人を受け入れることができません。
できる時は、やはり受け入れるようとする対象や相手になじみがあったり、理解していたり(知っていたり)、もっと言うと「愛」を抱ける場合です。
究極的には最後に述べた「愛」があるかどうかということになってくるのですが、もう少し次元を落としまして、(対象に)愛を持つためにはどうすればいいのかと考えますと、この「受容」を目的とした場合、先程書いた文にもあった「理解する」、あるいは「知る」ことが、まずは必要ではないかと思われます。
なにはともあれ、相手であれ、対象物であれ、そのものを知ることが受け入れるための準備となるのではないでしょうか。
つまりは受け入れたいと思うものに関心や興味を持つということです。
ただ関心を持って知った結果、到底受け入れられないという判断になることもあるでしょう。
でも、それはそれでいいと思います。
何もわからず、ただ「受け入れよ」と言われて、無理矢理盲目のまま受容したところで、あとで違和感が出たり、抑圧した感情が爆発したりで、最終的には受け入れどころか吐き出す結果が目に見えるからです。
食べ物でも実際には毒や体に害になるものがあります。それを知らないで、おいしそうだからと、たとえばフグを全部食べてしまったら、その毒で死んでしまうことになります。
でも、モノと心は違うと言う人もいるかもしれません。特に精神世界やスピリチュアルのことに関心のある方はそう感じる人もいらっしゃるでしょう。
いわく、受け入れるということはそういう判断のことではなく、純粋にあるがままの状態になることなのだと。
そう、私も実はこれはその通りだと思っています。
そこで、もう少し別の観点で「受け入れる」ということについて、考えてみます。というより、感じてみます。
すると、出てきたのはこういうことでした。
結局、受け入れる・受け入れられないということも、やはりひとつの判断ということになります。
感情であれ理屈であれ、何かをもとに評価しているわけですね。ですから、二択の言い方(受け入れられる、受け入れられない)になっているわけです。
ここをですね、二択や二元的言い方からはずしてみます。
すると、どこまでも「受け入れるのみ」か、「受け入れないのみ」かということになります。
今は「受け入れる」ことをテーマとしていますから、あえて「受け入れる」の言い方しかしないとしていきますと、面白いことに気がつきます。
結論からいえば、それは(受け入れるのみの考え方・回答方式は)可能です。
簡単なことですが、たとえば、何かを受け入れようとして、受け入れられないという感情や判断が出たならば、それ自身(受け入れられないという感情や判断)を受け入れるとするだけです。
そしてまた、その自分の「受け入れる」態度や方法に疑念や疑義が生じたら、またその疑いや違和感を覚えている自分を受け入れるということを繰り返します。
ま、簡単に言えば「受け入れられないと思っている自分を認める、自覚する」という作業になるでしょうか。
受け入れられないものを受け入れろと言っているではありませんから、これは誰でもできると思います。
「それは嫌だな」「受け入れられないよ」という「思い」があるのを、ただ「受け入れる」だけですから。
これはですね、やってみるとわかりますが、案外すごく楽しいものです。否定することがないわけですからね。
否定は時に冷静なったり、客観性を持ったりするためにも必要なものですが、やはり否定自体は、多くの人にとって感情的には気分のよいものではないですからね。
そうして、受け入れ循環をしていくと、段々いろいろなことが笑って見られるようなってきます。そうなると受容の成功といえるでしょう。
この特徴は、決して自分の信念や教義・価値観などにおいて相手に屈したり、迎合したり、考えを曲げて受け入れるというのではなく、自分は自分の信じるところのまま、それでも受容という作業は行っているということにあります。(ところが、受容作業が進むと、やがて自分の信念さえも溶けていくということが起こります、そのひとつの兆しが「笑い」です)
実はマルセイユタロットにおいて、「斎王」と「吊るし」はある共通するものを持つのですが、この観点から見ると、「吊るし」の人物が笑っているように見えるのも、すごく象徴的だと感じます。
それから先述したように、「知ること」「関心を持つこと」も受容の準備には関係することを、頭の隅に置いておくとよいです。これはマルセイユタロットでは「手品師」と「斎王」との並びに例えることもできますね。
コメントを残す