混沌とした中に秩序を見る。
混沌として秩序のない世界という状態があります。
不思議なことに、いや、むしろ当然なのかもしれませんが、自分の心が落ち着いていない時は、外の世界もぐちゃぐちゃになって整っていないかのような感覚を覚えることは多いものです。
その逆もあって、新しいところや慣れない場所では、環境的に落ち着かず、心も混乱しているように感じます。
スピリチュアル的に内も外もつながっているのだと考えるまでもなく、自然に人間は環境と心がリンクしてしまうようになっています。
ただし、よく考えてみると、結局、自分がどう感じているか? どう思っているのかで落ち着きや安心、安定感は変わると言ってもよいので、ここが唯心論(唯一、心あるのみの考え方)の、また根拠になっているようにも思います。
とはいえ、あまりに自分のいる環境が酷で大変なものであれば、普通の人は平静に保ってなどいられないのが当たり前でしょうから、心ですべて決まると言うのにも無理があります。
食べ物も水もない状況で、心身ともに平常でいられるような人はまずいません。幸いか、あるいは不幸か、人は肉体を持った文字通り「具体的」な存在でもあるからです。
ですから、心と物質的なものとのバランスを見たり、どちらも大事だとしたりするほうがいいと言えます。安心や幸せに、ふたつ保険をかけるようなものでもあるからです。
ただ、どちらも弱かったり、資源としての力(簡単にいえば懐の深さ・大きさのようなもの)が少なかったりすると、その保険もすぐ切れてしまいます。
心理的にいろいろな考えを許容していけるレベルの拡大をしておくか、物質的に豊かにしておくか、そのふたつの力が増せば、かなりその人の感じる幸せ度は高くなり、アクシデントがあっても、うまく乗り切ることの出来る確率は上がるでしょう。
さて、最初に戻ります。
これは心の豊かさのほうにつながっていくことになりますが、世の中や世界が混沌として無秩序(自分にとって無意味)であると思っているか、反対に秩序あり、自分にとって意味と理由があるものだと認識できるかの違いによって、まったく生きる力が変わってきます。
最初にも述べたように、混沌の中では不安も高まり、居づらさを感じるものです。逆に整った環境では安心できます。
また、世界には法則があり、自分もある大きな法則性のもとに生かされており、自らの人生は一見ランダムに起こるイベントの中でふりまわされて生きているように見えて、実はそれらがすべてつながっており、意味あるものだと感じることができれば、自分の存在感が強くなります。
同時に、自分というものが自分でありながら、大きなものの一部であるという感覚も得ます。
この世界はめちゃくちゃな世の中で、ただ偶然生まれて生きているに過ぎないと思うのと、世界には統一された秩序があり、自分は必然に存在し、だからこそ人生には価値があるのだと思うのとでは、すべてが異なって見えてくるのはわかると思います。
全部に意味を見い出せなくても、そう感じようとする意識になったり、一部でも驚くような必然性に気がついたりするだけでも、今までの世界観は変わります。
しかしながら、混沌とした中で秩序や法則性を見つけて、意味あるストーリーにしていくのは難しいところもあります。
実はマルセイユタロットを知ると、これができてくるようになるのです。
それはタロットが一見デタラメに作られているようで、ある法則性と統一性をもって描かれ、さらに一枚とグループ、そして全体へと構成されているからです。
これは宇宙そのもののモデルと言ってもよく、ある種のパターンや物語を典型的に象徴しています。
神話や伝説が、結構人の心をとらえるのも、それが民族的かつ人類の全体的パターンを踏襲しているからです。
そして、ここが大事な点ですが、その型が自分(個人)の中にもあり、自分が勇者であったり、お姫様であったり、老賢人であったりすることを無意識の中で感じる(その魅力や能力が自分にもあることを感じている、その部分を響かせている)ようになっているのです。
何か混乱にあるものをまとめていく(把握する)には、グルーピングしたり、型やパターンにあてはめて分析する方法があります。
それと似たようなもので、タロットに描かれる規則性・法則性を自分にあてはめてみることで、乱雑で無意味のように思えた自分の人生や世の中の出来事に、必然性を見い出していくことができます。
それはマルセイユタロットが、体系的(システム的)に象徴化されているツールだからできることなのです。
こうして、実は世の中は象徴に満ちあふれていることに気がつきます。
いや、言い方を換えれば、象徴で見る世界と普通の感覚で見る世界とのふたつがあることに気がつくと言ってもよいでしょう。
このことは非常に重要なことです。マルセイユタロットの「愚者」になることは、それを表していると言ってもよいくらいです。
なぜ重要なのかは、また機会を改めて書いてみたいと思います。
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