サッカーW杯、日本代表の結果を見て。
日本サッカー代表、W杯では残念な結果になりました。
私はスポーツの中でもサッカーが好きなので、当然のように注目はしていました。
ただ、タロットをするようになって、何事も様々な角度から見る傾向が強くなり、時が経つにつれて、単純にサッカーの試合やイベントに興奮するようなことも少なくなってきました。
それは試合過程と結果、選手の技術や戦術だけではなく、イベントのからくりや仕組み、宣伝・広告の世界、選手環境や心理状態なども考慮するようになったからです。
言わば、冷めた視線とサッカーというスポーツそのものにワクワクする自分とのせめぎ合いで、最近はいつも見ているようなものでした。
私自身は、これは悪いことではなく、バランスとしてどちらも必要な視点だと感じています。
こうしたことで考えると、今回のW杯での日本代表の結果は、ある程度予想できたものでした。ですから結果自体にショックはありません。
しかし同時に、今回はサッカーというより、日本全体の問題も浮き彫りになったのではないかと感じることがあり、それはそれでよいことでもあるのですが、根の深さと言いますか、かなり全体的なことでもあるので、気持ちがいいものではありません。
詳しくは書きませんが、やはり一番今回感じたのは、本質を見誤らせる全体的な仕掛けというものです。
サッカーにあまり関心がない人でも、FIFAというサッカーの世界的組織があることは知っている人もいると思います。そこが国別にランキングしている現在の実力順位というものがあります。いわゆる「FIFAランキング」です。
もちろんこの計算方法もあてにならないこともあるのですが、まあ、ともかくは一応は公式な国別のサッカーランクです。
そして今回のW杯で日本が入った一次グループの国々のランキング(現6月時点)は、上からコロンビア(8位)、ギリシア(12位)、コートジボワール(23位)、日本(46位)で、これが先月の5月であっても同じ順で、5位、10位、21位、47位となっていました。
これを見ると、いかに日本が下なのかわかると思います。むしろ、今回の一次リーグの結果は極めて順当・妥当であったということも言えるかもしれません。(決勝トーナメント進出はコロンビアとギリシアでした)
ちなみに日本は、ここしばらく40位から50位の間に留まっています。
これだけの情報でも、過大な期待はかけられないことはわかったはずです。さらには監督のここ数年の采配を客観的に見ていれば、本番での危険性はかなり強いと予測できたでしょう。
確かに現代表のレギュラーと言える選手たちには、ACミランとかマンチェスターユナイテッド、インテルなどのヨーロッパの有名・強豪クラブに在籍する人がいますが、実体は試合に出ていなかったり、不調であったり、怪我があったりと、万全でない人がいたことも、サッカーの世界では普通に知られていることでした。
ところが、多くの人たちは「何か」(あえて指摘しません)に幻惑され、本質的なものから遠ざけられたり、幻想や過剰な期待を抱かせられたりしています。それによって何をさせられたのか、どんな気分になったのかを分析してみるとよいでしょう。
気分を高揚させたり、盛り上がることが悪いと言っているのではありません。無理矢理に、あるいは意図的にそうし向けられていることもあると、どこかで思っておくとよいと言っているのです。
今は冷静でバランスの取れた情報というものは、ほとんど知らされないのが現状です。
これは何もサッカーに限りません。ほぼすべての分野、とりわけ、日本や日本人の全体に関係することでは顕著だと言えます。
現代はインターネットや情報機器、伝達スピードの急速な発達によって、様々な情報が飛び交う時代になりました。
しかしながら、それらを利用して、ある方向性に導いたり、バイアスがかかった情報を多量に出したり、本質的なことから目をそらしたり、見えなくさせられたりしていることが、逆に強くなっているのではないかという気がします。
マルセイユタロットの教えでは、この世界は幻想で満ち、私たちの神性の覚醒を阻む仕掛けや仕組みが施されていると言われています。(ちなみにこれは、一般の「正義」に対する「悪」の概念を言っているのではありません。しかし「悪魔」というの名前のカードはあります)
情報がたくさんあるからこそ、その中から峻別し、物事の本質やバランスを見る目が、ますます大切になってきていると感じます。
文明や社会が発達した割に、逆に、私たちの奴隷的な状態は、一面では昔より進んでいることもあるのかもしれません。かつてのような、見た目の奴隷ではなく、精神的・霊的な奴隷と言ってもよいでしょう。
従って、情報やメディアに流されず、自分主体で物事を見る(分析する)必要があります。
主体的に見るということは、情報は入れながらも自らで分析し、冷静さと自分の感性や情熱性も融合させるということです。
今回のW杯の結果で、すべてを一般化して、Jリーグや学生サッカー、また個人個人の頑張りや努力の世界、果ては今後の日本代表やスポーツ全般まで否定しまうのは問題です。
もちろんサッカーに一時的に関心を寄せて、今回のことで興味を失ったというのも、その人の自由と好みです。
ですが、自分が何かに踊らされ、自分の主体的な見方と感性ではなく、誰かや何かの言いなり、志向性によって奴隷のように動かされたとするならば、今後は注意したほうがよいでしょう。
私は純粋にサッカーというスポーツが好き(その歴史的な普及経緯等では、手放しで喜べるものではありませんが、球技スポーツとしては個人的には面白いと感じています)で、これからも代表やサッカーをする人を見守ったり、応援したりしたいと思います。
一方でサッカーやスポーツを利用しての操作や、幻想装置としての働きの部分には注意したいと考えています。
これ(サッカー)に限らず、ダメなものはダメ、いいものはいいときちんと自分なりに評価したり、意見が言えたりする自由な社会であってほしいと願いますし、また社会や外に期待するのではなく、実はそれぞれ自分の問題としてとらえるというのが本質ではないかと、タロット的には思うのです。
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