責任の負い方・取り方、バランス。

今日はタロットをしていて浮かんだことがあったので、記したいと思います。

●過剰な責任の負い方と、不足な責任の取り方

これは「正義」のカードが端的に象徴することですが、責任(の持ち方・取り方)のアンバランスという観点では、

1.自分の現状や今の能力を超えて、必要以上に責任を負おうとする人(状態)

2.本来やるべきことや、取るべき責任から逃げている人(状態)

が挙げられます。

「(状態)」と書いたのは、これは特定の人のことを言っているのではなく、結構誰にもそのようなことが、時と場合によって起こる(起こしてしまう)からです。

さて、面白いことに、私の見るところ、日本人では1は個人に起こりやすく、2は組織や集団に生じやすいと言えましょう。

1ですが、注目を浴びれば浴びるほど(または周囲を気にすればするほど)、自分自身のイメージや状態よりも、外(他人)の周囲のイメージが優先されるようになり、その投影された巨大で高いレベル(他人や大衆が求めている幻想レベル)に自分を合致させようとして、個を超えた自分の力を信じて、実際にはできないことも多いのに頑張ろうとしてしまいます

こうなると、いつも強いプレッシャーを感じることになりますし、できないことをやろうとするわけですからつらいです。

「達成しようと頑張る」→「できない」→「もっと頑張ろう」という悪循環にも陥り、それは結局不幸と言えます。

それで自分を見失い、失敗(本当は失敗でもないのですが)を繰り返して、疲れ切り、自滅することもしばしばです。(このあと、プレッシャーを与えた対象(相手)か、逆に応えられなかった自分を責めるようになることが多いものです)

2は、特に組織の場合、内部集団に紛れることで、責任をあたかも分担したかのような錯覚になって、本来その組織の長や担当者が取るべき責任が軽くなってしまうことがあります。ひどい場合は、意図的に責任者が組織を隠れ蓑にして、隠蔽したり、逃げたりすることもあります。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」というような具合ですが、自然発生的な個人のバラバラな状態ならば仕方ありませんが、もしこれが組織の団体行動で、赤信号でも渡らせた(それで事故が起こったという場合)組織のリーダー・責任者も責任を取る必要があります

まあ、このあたりは今までもよく言われているので、「そうそう、日本の組織はそういうとこあってダメなんだよね」と思っている人も多いでしょう。

ところが、実は私たちは個人レベルにおいても、この組織的責任回避(というより逃避)をイメージでしてしまうことがあるのです。

それは、本来自分(個人)が行うべきことであるばすなのに、何かと理屈をつけてやらない場合に起こりやすいものです。

簡単に言えば、自分ができない理由を正当化するために、ほかのできていない人を見つけて、「ほら、あの人もしていないよ」という、似たもの疑似集団を自分で作り出すわけです。

やっかいなのは、これがイメージの世界なので、事実よりも自分の都合のよい解釈によって、時空さえ超えて理由や共通点を見つけ出そうとすることです。

時空を超えるというのは、たとえば 成功者とか今はうまく行っている人の過去に遡って、「今の自分と似たところがあった」としたり、空間は言わずもがなですが、場所を飛び越えて実際に会っていない人、知らない人に対してでも、「きっとそうなんだろう」とか、「この人の言うことが、私の今の状態でもいいことを許してくれている(と自己解釈する)」と思ってしまうことです。

いわば責任逃れのための理由を、勝手な解釈でグルーピング化(人や理由の、組織化や集団化)してしまうということです。もっと平たく言えば、個人の問題なのに一般化(全体の問題化)しているのです。

前にも書きましたが、「怒り」や「悲しみ」がある場合は、個人的問題が一般問題化されて隠れている場合が結構あります。

さて、最初に書いた責任の取り方のアンバランス「1」のケースに戻ります。そう、自分を追い込んで責任を取り過ぎているパターンのことです。

これの判断は、自分が楽しんでいるかどうか。あるいは、やればやるほど心と現実(形あるもの)が消耗しているかどうかという点が見極めのポイントです。

何かを達成したり、結果を出したりすることは快楽的(気持ちいいこと)なことだけではできないのが普通です。そこに何らかの熱意ある働きかけや行動(努力の場合もある)が必要です。時には苦しいこともあるかもしれません。

ただし、やっているのに結果も出ず、心身が消耗し、お金もなくなり、人間関係もおかしくなっているものは、やはりそこに“過剰な”何かがある証拠です。

たいていは、先述したように、本当の自分の気持ち現状の能力・扱える範囲ではなく、誇張され、自分ではないほかの人から拡大投影されたイメージの「自分」を演じようとして、自分を超えた責任を背負い込んでいる場合が多いのです。

この時は、フラットな自分に戻るため、自分を甘えさせてもいいわけです。

そもそもが「自分以上のこと」をしようとオーバーワークになっていたわけですから、甘えるというより、本来の自分相応に調整すると言ったほうがいいです。

注意すべきは、自分が演じているだけではなく、誰かに対してそうした「過大な人になること」を要求していないかという点も大切です。

すごく単純なのですが、「何かが変・おかしい」と自分が感じているのなら、やはりそれはバランスの意味で正しいことがあるわけです。

ここがマルセイユタロットで言えば、「月」とも関係するのです。よって「月」と「正義」はバランスの意味で関連しあうカードとなります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top