「ホドロフスキーのDUNE」から思ったこと。

先日、映画「ホドロフスキーのDUNE」という映画を見てきました。

私の中ではちょっとしたホドロフスキー氏ブームが起こっていて(この前、来日されたこともあります)、いわばその当然の流れみたいなものです。

アレハンドロ・ホドロフスキー氏については、このブログでも再三取り上げていますし、今更語るまでもないのですが、カルト映画の巨匠であり、タロット研究家、サイコセラピスト、漫画原作者等、様々な顔を持つ多彩なお方です。

まあ中でも、当たり前ですが、タロットをする私としてはタロット研究家、タロットリーダーである氏の部分にとても関心があります。そもそもホドロフスキー氏が復刻したマルセイユタロットを私は使っているわけですから。

と、ここまで書けば、その映画とタロットの解説をするのかなと思われるかもしれませんが、今日はそうではありません。

映画「ホドロフスキーのDUNE」を見て、私が個人的に映画とは別の意味で思ったことを記したいということです。

その前に、「ホドロフスキーのDUNE」とはどういう映画なのかを簡単に説明しておきますと、監督はホドロフスキー氏自身ではありません。

むしろホドロフスキー氏を被写体や役者・テーマとして出演させた映画と言えます。

1975年、映像化不可能と言われたフランク・ハーバートの小説「DUNE」を原作に、ホドロフスキー氏が企画したSF超大作映画「DUNE」(完成していた場合、上映予定時間が12時間とも20時間とも言われています)があり、その計画の進行と中止に追い込まれた経緯を、当時関わった人たちを中心に、ホドロフスキー氏自身のインタビューも交えて作られたドキュメント映画です。

ホドロフスキー氏の企画した「DUNE」は、この「ホドロフスキーのDUNE」の映画を見てもらえればわかりますが、非常に壮大で哲学的、宇宙船やコスチュームのデザイン、さらに出演者や音楽も、当時の蒼々たる面々がクレジット、参加予定されていました。

アップリンクさんの、この映画の公式HP http://www.uplink.co.jp/dune/introduction.php
 から引用させていただきますと、

『バンド・デシネのカリスマ作家メビウス、SF画家のクリス・フォス、『エイリアン』『トータル・リコール』の脚本で知られるダン・オバノン、画家、デザイナーのH・R・ギーガー、73年の『狂気』をはじめ現在まで絶大な人気を誇るサイケ/プログレの代表的バンド、ピンク・フロイド、キャストにシュルレアリスムの代表的作家サルバドール・ダリ。『市民ケーン』など映画監督としてのみならず俳優としても知られるオーソン・ウェルズ、ミック・ジャガーダリ、ミック・ジャガー、ギーガーなど・・』

と書かれています。いかにすごい人たちで固められていたかがわかりますし、その人たちを口説き落としたホドロフキー氏自身の魅力も相当うかがえる逸話です。

さて、映画の説明が長くなってしまいましたが、ここからが本題です。(笑)

この映画は結局壮大すぎて現実には映画として生み出されませんでした。

マルセイユタロットで言えば、女帝(企画)から皇帝(現実)の段階の途中で終わったということです。

しかし、この映画でも語られていましたが、ホドロフスキー氏が企画した映画は「DUNE」は死んでおらず、ここに参集した当時の若きデザイナーやクリエイターたちは、やがてハリウッド映画やほかの映画・創作物で「DUNE」で得たクリエイティビティとインスピレーションを発揮させました。

(ホドロフスキー氏は、「DUNE」の主人公がラストシーンで死ぬが、それは登場人物や生きとし生けるもの全員に転化され、すべて主人公になる(意識の共有化)と語っていたのが印象的です)

また「DUNE」に直接関わらなくても、ホドロフキー氏の残した絵コンテや企画書があり、これを見た映画関係者・クリエイターたちが、やはり影響を受けたものを創造しています。

さらには、「DUNE」から影響を受けて生み出された作品からも二次的に影響が波及して、次々と新たなものが創り上げられていく循環現象さえ見いだせます。その影響は今も続いてるのです。

とすると、現実には出現しなかった(映画として完成されなかった)想像(創造)の世界のものであっても、現実世界には確実に影響を及ぼすことができるのだということであり、もっと言えば、生まれたものは決して死ぬ(消失する)ことはなく、ほかの形やエネルギー、インスピレーションの源泉として生き続ける(成長することすらある)ことになります。

マルセイユタロットには「死」をもっとも象徴するカードとして「13」(名前がなく数だけ)というカードがあります。

そして、創造を象徴するカードには、さきほど述べた「女帝」があります。このカード同士は、互いに「」という数を持ちます。

創造と死(破壊)は表裏一体の実は同じものであり、逆に言えば死は創造で、恐ろしいものでも悲しいものでもないのだという示唆も受け取れます。

ただ、現実化することで、確実な収穫(と感じるもの)を得たり、見たり聞いたり触ったりする実質の体感も人は必要とするのでしょう。

自分や自分の生み出したものがこの世には存在しない、誰からも認められないというのは、現実感覚において寂しいことなのかもしれません。

いわば、生きる実感、生きている実存証明の欲求と言い換えてもよいものが人にはあります。それは私たちかまさに肉体をもって現実世界に生きているからにほかなりません。

それでも、現実化しない創造の段階ではあっても、それが極めて高度で崇高なイデアに近いものであるならば、それは想像の世界で生き続け、魂を持ち、神殿・宮殿として輝き続けるのだと感じます。

想像することが創造につながり、その創造は自分の希望通りに現実化しなくても、情熱と純粋な魂に裏打ちされたものならば、何世代にも渡って生き続ける「力」(永遠性)を持つのです。

逆に言えば、私たちはそのような想像(創造)を自ら行うことで、ある種の宇宙を作り出しているともいえ、その根源的なエネルギーを自身に降ろしているのだと言えます。

つまり瞬間「神」になっているのです。レベルや規模の違いはあれ、その経験は人として重要ではないかと思います。

ホドロフスキー氏が御年85になってもエネルギッシュに活躍できるのも、ひとつにはその理由があるからではと考えられます。

もうひとつ、「ホドロフスキーのDUNE」を見ていて思ったのは、偶然のように、ホドロフスキー氏が会いたいと思っている人、この作品に関わって欲しいと思う人に出会えているということです。

その過程は神秘的ですらあり、何か超越的な存在の意図を感じさせます。いわゆるシンクロニシティも頻繁に起こっているわけです。

こうなると、スピリチュアル系統の(傾倒でもある)人には、自分らしさを最大限に発揮し、シンクロも起こり、大いなるものの意志も感じるとして、「映画は間違いなく完成する」と直感的に思うかもしれません。

おそらくホドロフスキー氏自身も、当時はそう感じたことがあるのではないかと思います。

しかし、映画は完成しなかったのです。引き寄せ的には完成して、現実化してもおかしくはない状態です。

ここを考えることも、本当の意味でスピリチュアルだと私は感じました。

ホドロフスキー氏はこの見た目には大失敗の結果に、かなり当時は落胆されたようですが、反対に、この経験によって、ある種の悟りを得られたような気が、この映画を見ていて私はしました。

それがおそらく本当の答えであり、「DUNE」という映画の真の意味(神の意図)ではなかったかと思うのです。

未完こそ完成であり、また完成は未完でもある、これは永遠のダンス、マルセイユタロットでは、ある象徴(あえて述べません)とも言えるのです。

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