「節制」に見る助け合い
タロットカードに、「節制」というカードがあります。
カードの名前だけを聞くと、厳しいイメージもありますが(実際、そういうニュアンスで象徴させられることもあります)、絵柄はいかにも典型的な「天使」の姿であるので、助ける、救済といった意味もあります。
ということで、今回は「助ける」「助けられる」といったことをテーマにしたいと思います。
いきなりですが、私たちは皆、助ける側か助けられる側、どちらかであると言えます。
どんな人間でも生まれてきた直後は赤ん坊であり、親や人の助け(まれに動物の助け)がないと生き延びることはできませんし、成長もできません。
ということは、全員助けられる側から出発だということです。
そして、大きくなるにつれ、誰かしらを助ける側に回ります。
普通の人間関係においても経験することですし、直接的ではなくても、何かを買ったり、利用したりしてお金を支払うことも、ひとつの助ける行為だと言えましょう。
ここで大切なのは、助ける数ではなく、誰もがこうして必ず助ける側にも回るという事実です。
助ける行為や意味を拡大すると、赤ちゃんの頃でも、親や他人に安らぎと希望・勇気などを与えることもありますから、存在だけで助けている場合もあると考えられます。
大人になっても助けられることは多く、仕事やプライベートで誰しも助けられた経験はあるでしょう。
怪我をしたり、病気になったりすれば、医者に助けてもらいますよね。
商売はボランティアでない限り、助け助けられていると言えないかもですが、そのサービスがないと人生が味気なくなったり、生きていけないものもあったりしますので、やはり助け助けられていると商売でも言うことができるでしょう。
すると、本当に誰もが、どの場面でも、助けられ、助けていると考えることができるのです。
「節制」のカード(マルセイユ版)の特徴は、2つの壺を天使が持ち、壺の水を交互に移し替えているところです。
つまり、助け合いであったり、助ける側・助けられる側の関係が入れ替わることを示唆しています。
もしかすると、私たちは誰もが助ける側と助けられる側になるのは等量なのかもしれません。
そんなはずはない、私は助けられる側ばかりだとか、助けているほうが多いかなあ・・など思うでしょう。そもそも、そんな比率を計ったことがないという人がほとんどかもしれません。
しかし、私は「節制」のカードの象徴から、その関係は同じなのですよ、と言われている気がするのです。
問題はその等量バランスに気がついていないことなのです。また、実は同じこと(気がついていないことと同じ)になるのですが、等量バランスのレベルが低いという問題もあります。
例えばいつも助けられていると思っている人は、自分で自分をそう規定してしまって、だから自分の認識や行動も「自分が助けられている」となるよう振る舞います。
結局それは、「自分は助けられなければならないほど、無力なのだ」と思っているということです。
逆に、自分はいつも助けているという思いが強い場合は、自分が助ける側に回る機会を持つことに傾注し、言わば、助けられる側を無意識的に探し出し、あるいは、もっと悪いケースでは、弱者になるよう相手の力を奪ったり、そう決めつけたりして自分を優位な立場や上にいるようにする場合があります。
「いえいえ、そんなことは思ってませんよ、実際に私は力がなくて助けられるしかないんです」とか、「困っている人を助けるのは当たり前でしょ」だとか、自分の経験している事実を見て、そう主張されるかもしれません。
確かにそれはそれで事実だと思います。あなたは弱いかもしれないし、上から目線などなく、純粋に困っている人、弱い人を助けるサポートをしているということもあるでしょう。
私が言いたいのは、どんな人、どんな人生であれ、言ってみれば「神目線」であれば、助け・助けられるバランスは同じではないかということなのです。
個人個人の認識は違っていてもです。(違っているというのは、助けるほうが多いとか、助けられるほうが普通だとかいう偏りの認識)
こう考えてみましょう。
例えば病気がちでずっと助けられて生きている人であっても、反対に、自分の存在でサポートをする人を創造していると見ることもでき、サポートしている側の「救う」という意志・エネルギーが、ほかの人や人類全体に寄与しているのではないかと考えるわけです。
また助けられる人に必要なものは、物理的にも製品・商品として使われるので、それを製造している者や会社に貢献しているとも言えます。
では仮に、人は誰でも助け・助けられる関係として等量バランスにあると見ると、何もしなくてもいいではないか、特に助ることは無意味ではないかと思うかもしれません。
ここに個人のレベル・次元の問題が浮上するのです。
だいぶん長くなっていますので、簡単に言いますと、助ける・助けないを何も意識せず、ただ流されるままで動いていると、その人のレベルに応じたバランスの取られ方になってしまうということです。
有り体に言えば、成長しないのです。
救う量も少なければ、救われる量も少ないと言えばわかりやすいでしょうか。
だから救う範囲やレベルが上がれば、その分、(自身の)救われる範囲やレベルも拡大するということです。
逆に言えば、「救われた」という実感と自己認識が深くて大きければ、それに匹敵する救う行為にも発展していくということになります。
そして、さらに重要なのは、人を救うその前に、いや同時に、自分を救うこと(を意識すること)なのです。自分を救えば、人は救えます。※自分を救ってからでないと人を救えないわけではないことに注意。
人を救う機会がある時、自分を救っていることを意識すると、自分には救済者の部分があること、その行為ができたり、表現できたりする自分がいることを確認できるからです。
自分が救済者であるのなら、自分を救えないわけはないのです。
たとえ最初のうちは自分を救う自分の力が弱くても、人の救済に自分の救済力を見ることが増えれば、自分の救済力も上昇していきます。(傲慢になること、自分を驕ることとは別なので注意)
そうすれば、自己の救済はきっとできるでしょう。
「節制」はまさにそのことを象徴していると考えられるのです。
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