自然の驚異と祈り
今月、各地で起こった災害について心痛めるところです。
特に、広島の土砂災害は、あの地域がかつて私が住んだこともある場所なので、余計です。
私は中学・高校の年代に、広島市安佐南区八木に住んでいたのです。災害に遭ったところは、まさに通学路だったり、自転車で走っていたりしていたところでした。※幸い高校時代の友人は無事でした。
災害で命を落とされた方のご冥福をお祈りいたしますとともに、一日も早い復旧・復興、被害に遭われた方の生活の安定を望みます。
世間では、あのような場所に家を建てること自体間違っているとか、住むのが信じられないと言う人がいますが、普段は確かに山あいでこそあれ、あのような同時多発的な土砂災害が起こるとは、普通の人には想像がつきにくかったと思います。私が住んでいた時も、そん心配をしたことがありませんでした。
また、昔と違い、今は一時間に何百ミリもの大量の雨が降るような事態が増え、以前とは比べものにならないくらいの自然の猛威と言えます。
しかし、こうして実際に災害が起こってしまうと、やはり問題が浮き彫りにされます。行政の問題、土地や家の販売業者の問題、住民の意識の問題・・・様々とあるでしょう。何とかもっと被害を減らすこと、命を救うことはできなかったものかと思わされます。
私はこう思います。
「あんな場所に住むなんて」という批判よりも、普通の人としての感覚、安全だと思わされてきた住民の情報と状態を思い、本当に自分ならば、同じ人生の選択状況に置かれた時、あのような地区に住むことを止めたのかかどうか、自身に問うてみるべきだと。もともと生まれた時からその場所に住んでいたという人もいて、簡単に転居などできるものではありません。
と同時に、無批判に終わることなく、やはり以前にも土砂災害は発生していたのですから、今後の対応策を人々は考えるべきだったでしょうし、これからも検討していかねばならないと思います。
人の痛みに寄り添う人間的感覚と労りを持ち、また機能的・機械的・科学的にも検証し、災害の被害を減らしたり、軽減できたりする工夫を考え、実行していくことだと思います。この時には改革によって、面倒さや煩わしさ、時には痛みも伴うかもしれません。マルセイユタロットでいえば、「節制」と「正義」の関係のようなものです。
さて、視点を変えまして、ここからスピリチュアルな話にします。
マルセイユタロットでは「審判」や「星」が特に想起されるのですが、「祈り」という行為があります。
かつて、人々は自然の驚異に対して畏れ、祈りをしてきました。いわば、大地や空に対して祈りを通じて「鎮めて」きたわけです。
現代的に見ると、これは迷信や昔の人の素朴な信仰によるものと解釈されがちですが、私はタロットから見ましても、このことは現実的な意味があったと想像しています。
祈りはどこでやっても同じ効果があったかと言えば、そうではなかったでしょう。
「聖地」と呼ばれる特別な場所で祈りが捧げられることが多かったのは、その場所・フィールドに意味があったからと考えられます。
また人数、もしくは限定された(選ばれ、修行した)人による祈り、さらには人の配置と音声の方法という選択も実は厳格であったと思います。
これがいわば「儀式」です。儀式には何かの力が発動するための手順があったとイメージできるわけです。
では、その力とは何か? おそらくそれが周波数や波動といったものに関連するものと予想されます。
わかりやすく言えば、ある特定の場所や人、作法によっての祈りが、大地や空中のエネルギーフィールドに何らかの影響を及ぼし、過剰な、あるいは不足的でアンバランスなエネルギー状態を中和させていたのではないかということです。
おそらく普段からの自然への畏れが崇拝にもつながり、「神」のように崇め奉ることで、調和に導いていたのではないでしょうか。
その逆も重要なのですが、祈ることで自然エネルギーと一体化することもでき、自己の浄化や充足感(隔絶感や孤独感の反対であり、つながりや絆を感じることでもあった)に関係していたと思います。
安心安全が、自然(神)への祈りの双方向によって、外(環境)と内(自身)にもたらされていたわけです。
まさに生かしているし、生かされている感覚だったでしょう。
日本では神社仏閣がその機能の一端を担っており、ネットワーク的につながっていたと想像できます。
日常の参拝が、ひいては自然と自分とを鎮める(調和させる)役割になっていたとイメージされます。※エネルギーとは別ですが、環境民俗学的にも、神社・祠等の参拝と信仰が環境を守っていたということが指摘されています。
昔は無意識に、それを象徴的行為としてやっていましたが、今は象徴的感覚と知識を削ぎ落とした時代になりましたので、祈り自体の量や機会も減り、文字通り、「自然と」自然が暴走するようなことになっているのではないかと思います。
そういう意味では、「祈り」を復活させていきたいものです。
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