人生の目的を探すこと
自分はいったい、人生で何をしたいのか? 生きている目的は何なのか? 使命や天命、やるべきことなどがあるのか?
人は誰でもこういった悩みを抱える時があります。
この問いたちは、要するに、個人的なことのように見えて、全体との関わりがテーマとなっています。
言わば、自分は社会や世の中、宇宙にとって、どんな役立つ(または役割のある)人間なのか?というようなことが知りたい、いえ、実感として味わいたいということでしょう。
そうして、人は自分なりにその答えを求め、思考し、行動します。
これに関連する考え方として、大きくわけるとふたつのものが出ます。
ひとつは、まさに天命として、自分がやるべきことが天(宇宙・神)から与えられるているものだと考えるケース。
もうひとつは、自分で意味を決めて、自らでスートリーを作り、演じるというケースです。
前者は道筋のようなものがどこかにヒントとしてあると考えることもありますし、天からメッセージとして伝えられているはずだと想像して探すことをするかもしれません。
人によっては、占い師に運命を見てもらったり、誰かに相談したりして、自分の歩むべき道の発見に努めるでしょう。
後者は、言ってみれば、真っ白なキャンバスに自分で絵の具で絵を描くようなものですから、誰かに言われたり、指図されたりするのではなく、自分が決めたらいいんだと、自由意志を尊重することになるはずです。
私自身は、どちらでもいいと思っています。そもそも自分の人生に意味を見い出せなくても、充実した生き方ができる場合もあるからです。
ただ、ふたつの考えを融合してみるのも面白いかなと、マルセイユタロットを見ていて思います。
まず、自分が人生において、「充実している」「生きている」と実感している時は、あまり自分のなすべきことを探求しようとはしないでしょう。
それはそのまま、「今そのもの」が使命や天命というものに添っていて、ちゃんと道を進んでいると解釈することもできるからです。
しかし、何かどこか空しいものを感じていたり、違和感を覚えていたりするという場合は、自分の魂の求めるものとは違うことをしているのではないかと疑うこともできます。
しかし、本質は合っていて、表現方法が異なっているという場合や、規模や場所、対象が違っているだけという場合も考えられます。
ですから、具体的なことよりも、抽象的なもので、自分のなすべきこと、生きる意味を考えたほうが本質に近くなると言えます。
さて、話を戻しますが、もともと自分のやるべきことが決まっていると考えるケース(運命・使命論)と、反対に何も決まっておらず、自分が見つける意志を示すことで初めて自分が生きる意味が出てくる場合(自由意志、創造説)と、両方を一緒にすることができるのではないかと前述しました。
私の思うところ、このふたつは表裏一体、モノの見方の違いで、実は同じことであると見ています。
宇宙や世界にとって、一人の個人は小さな構成員のひとつに過ぎず、大きな観点で言えば取るに足らない存在です。
ところが、そんなちっぽけな「ひとり」でも、「実存している」という事実があり、もし世界や宇宙が完全だ(完全でなくても意志を持つ)とすれば、たった一人の個人でも、その存在自体は全体として意味があると考えられます。(パーツとして、欠かすことができない)
ですから、一人の思いや行動、貢献・表現も無視できないものとなります。
言わば、一人一人の個性表現が全体となって、それ自体が宇宙だということです。
その反対にまた、宇宙は私たちに自由に思い・行動する許可を与えており、個人の目標や目的・使命感も、一人一人自由に創造できると考えられます。
つまり、例えで出した「(個人の)真っ白なキャンバス」に色や絵を自由に塗ったり、描いたりすることが個人的にOKなのです。
ところが、自由に個人的に描いた絵だと思っていたのが、有機的に全体的なネットワークシステムのようなものに繋がっており、宇宙の全体意志とリンクしていることにもなると想像できます。
言い換えれば、個人で勝手に描いた絵が、実は宇宙を楽しませていることにもなっているという構造です。
従って、どんな風に自分の人生を思おうが自由であり、それがまた、宇宙(全体)には何らかの役割や役立ちとして機能している可能性が高いのだと言えます。
とはいえ、人間同士のコミュニケーションでもそうであるように、自分一人で勝手に思っているよりも、直接的ではなくても、どのような形であれ、相互にコミュニケートできていたほうが、どちらにとっても面白く、わかりやすいことになると思います。
スピリチュアル的に言えば、自分の目的や目標、やりたいことに対して、宇宙からサポートを受けやすいということになるでしょう。
ということなので、宇宙が「こうしてくれればよいかな?」という思いをふまえたうえで(感じ取りながら)、自分の個人的・個性的表現として生き甲斐や使命を演じていく(達成していく)というのが、どちらにとっても楽しいことになるのではないかとイメージできます。
それが、運命や天命を探求したり、人や自然と交流したり、暗号のようにちりばめられている宇宙からのメッセージや意志を読み解いたりすることの意味につながってくるわけです。
「これが私の生きる道」と独り相撲のように、自身のキャンバスに描くのもよいですが(また描かなくてもよいでしょう)、「この絵はこんな方向でいいのかな?」「もしかしたら、ここはこんな色がいいのかもしれないよね?」と、様々なものと交信し、情報を入れながら完成形の絵を想像して描いていくのも、より楽しいと思います。
ちなみにコミュニケートする「暗号」は、シンクロという形や言葉遊び(同音異義語など)、夢解釈、象徴ツールを使うなどのことで、意外に明確に伝わる場合があります。
実は真っ白なキャンバスのようでいて、大体はすでに下絵が描かれていることが多いものです。
その下絵から大きくズレている人生を歩んでいる時、人は心に葛藤や閉塞感・違和感を覚えるものだと思います。
また一方で、下絵のように思っていても、一枚はがすと全く別の下絵やキャンバスが出てきて、それに描くこともできるのが人のすごいところであり、その自由性も有しているのだと、マルセイユタロットを見ていると思うのです。
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