何かをしたいけれども、できない時

一般的に、何かやりたいことがある場合、それに抵抗してしまうもの(障害になるもの)が大きく分けて2つあります。

それは物理(環境)的なものと心理(精神)的なものです。

世の中はすべて二元で分けて見ていくことができますので、この物と心での区分けは、言わばその代表的なもので、何にでも適用できます。

それはさておき、話を戻しますが、まず物理的・環境的抵抗(障害)とは、見えることのできるレベル、物理的に計測できるものにおいての抵抗です。

具体的にはお金と時間、または距離というのが顕著なものでしょう。「人的なもの」(心理要素は除く)ということもあるかもしれません。

もうひとつ、心理的・精神的抵抗は、文字通り、心の抵抗・ブロックです。わかりやすく言えば、やりたくない、無理だ、不可能、自分にはする資格がない・・・とか、そういうような感情や思考法(思い方)ですね。

まあ、これにも二元あって、自分で意識しているものと、意識していない潜在的なものがあると言えます。

それで、セラピー系の人の扱うのは、どうしても内面、心の抵抗からはずしていくということになるのですが、確かに実際に行動を制限しているのは「人の思い」ですから、それも理にかなっていると考えられます。

極端なことを言えば、ロボットみたいに心を持たない人間だったら、命令・プログラムのままに何の制限もなく、行動をしてしまうでしょう。

制限があるとすれば、それこそ純粋に物理的な要素であり、その人間の身体能力を超えたことや、距離・時間を超越するなどのことは無理だというだけです。

ですから、心理的抵抗をはずすというのは、目的の達成のための行動には、とても重要だということがわかります。

しかしながら、人には心があるからこそ、実は心からだけでは難しい場合もあるのです。

基本は人の思いが行動を支配しますが、それだけに「感じている」ことが重要で、その感じることというのが、実際の経験によって培われることが多いからなのです。

実際の経験というと、物理的なことと関わってきます。

いわゆる慣れの問題などの例で考えれば、わかりやすいでしょう。

例えば、ある隙間をジャンプすることに対して、人から「あなたはこう飛べば越せますよ」と説明を受け、自分でも「行けそうだ」と思ったとしても、それは頭の中のイメージだけなので、真の意味ではまだ葛藤が心ではあると言えます。

しかし、とにかく飛んでみて、失敗するにしろ(まあ、命の危険や大けがなどしない前提ですが)、うまく行くにしろ、実際の体験が、生身の感情や印象として本人に植え付けられます。

これが、隙間をジャンプする、飛び越えることの確実な心身の情報としてインプットされ、次への行動に向けてかなり具体化するということでもあります。

「なるほど、こうやってジャンプするのか」とか、「これができるのなら、もう少しくらいの隙間は飛べるな」というような「感じた思い」の獲得です。

自分の行動への確信が芽生えると言ってもよいでしょう。

そうなると、逆の発想も出ます。

たいていは、何かをしたいけれどもできないのことには、心理的抵抗はもちろんですが、お金の問題も結構見受けられます。

お金を失うことの心理的不安と抵抗が大なので、思い切れないわけですが、一度、思い切る経験をすることで、抵抗する思考を破壊するというチャレンジが可能です。

まあ、平たく言えば、「何とかなるもんだ」という実際の体験によって、今までの考え方や思い方を変えるということですね。

お金ができてからやるのではなく、あえて先に申し込んだり、やってみたりすることで、その失うお金を別の形で稼いだり、それ以上のリターンを得たりすることの思考と行動へ結びつけていくという感じです。

今までは、「これだけのお金を失えば、もうかなり不安でどうしようもない」となっていたところを、「ない(一時的な損失になる)のなら、どうにかして手に入れる(もちろん合法でですよ(^_^;))、回収させることを考え、実行せざるを得ない自分に追い込む」というのに近いです。

結局、本当に自分がしたいことのためなら、お金も何とかなること(事前だけではなく、事後の回収ということの視点も入れて)は多いものです。

まあ、けれどもバランスも大切で、あまりに生活自体揺らいでしまうようなチャレンジは、不安が強すぎてしまうので、それは無謀というものです。言っているのは、少し無理するくらいの感覚ですかね。

ということで、何かをしたいけど、できない場合、物心両方、あるいはどちらか適切のほうでアプローチしてみるとよいでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top