自分の使命や役割を考えること

人は、自分に何かの役割や使命があるのではないかと思いたい時があります。

自分の生きている意味が知りたい、何か自分が役に立つ存在でありたいと、人は願うわけです。

それは当然の気持ちとも言えるでしょう。

何かの使命感や、生きている意味・役割を自分が持っていたほうが、やはり人生はそれだけ文字通り「意味ある」ものに見えてきますし、充実感も違うからです。

しかし、一方で、自分をひとつの役割・使命に限定させてしまう危険性もあります。

タロットを見ていて思うのは、人間の中にある可能性であり、宇宙(神と呼んでよいもの)とリンクする完全性です。

人にはすべての可能性があり、誰しも役割はひとつとは限らないということです。

ただ、確かに物理的制約や、ある一定のルールのもとで、叶わないものもあります。

とはいえ、あまりに自分の傾向を分析し過ぎたり、役割や使命というようなものをひとつに絞り過ぎたりすると、かえって自らの可能性を狭めてしまうことにもなりかねません。

「これだけ」という強い思いは、物事を成し遂げたり、改革して行ったりする強力な意志と行動力を生みますが、自分の信じていたものが間違っていたとか、価値観のまったく異なる世界に周りが変貌するような時、自分の中の柱がポキリと折れ、立ち直ることができないおそれもあるのです。

思えば、モノでも見方や考え方を変えれば、複数の機能(役割)が出ます。

例えば一本の木の棒、これは登山者や歩行者にとっては杖となるでしょう。

また、寒い時にはたき火の火種にもなります。

何か、机のような土台を支える柱になるかもしれませんし、杭になって、境界を区切る線になるかもしれません。

もちろん身を守ったり、相手を打ちのめす武器としても使えます。

このように、モノでもたくさんの姿があるわけです。ましてや人間なら、なおさら多くの姿があるはずです。

ですから、今の職場や家庭でのあなたの姿、もしくは役割・機能がすべてでは当然ありません。

もしかすると、自分の使命をすでに発見している人がいるかもしれませんが、見つかっていない人が問題でもありませんし、見つかっていても、それだけとは限らないのです。

途中で使命や役割が変わるケースはいくらでもあるでしょう。

「役割」ということで見れば、状況・環境によっても刻々と変わります

あなたが伝えたり、教えたり、導いたりする役割になることもあれば、逆に導かれたり、教えられたりする側に回ることはあります。

あえて悪い言い方をすれば、人に迷惑をかけることもあれば、かけられることもあるわけです。

子供の頃は子供として育てられたり、教育させられたりしますが、大人になれば、反対の立場・役割になります。(まあ、大人になっても子供の役をしている人はいますが・・(^_^;))

それから、自分の個性・特質を知るということが、自分の役割や使命を知ることでも有効ではありますが、それも落とし穴があり、個性を活かす(活かすというより拘るという)ことが、逆に自分を枠内に押し込める結果となることもあります。

例えば、占星術でも、出生ホロスコープを超えることがひとつの目標であると言われ、星を使うのではなく、星を超えることが本当の目標と言え、そのための過程として自分のホロスコープをよく知る必要があるというものになります。(これはあくまで私の考えで、占星術的には異なる意見もたくさんあります)

しかし、自分の特徴に拘るあまり、星の象徴するエネルギーを、星々の運行状況によって、自分の運をよくするためだけに使おうすることがあります。

そうすると、逆に星に操られるといった表現に近いものになり、自分に刻まれた星々のエネルギーに衝動的に動かされる自分のままになることがあります。

結局、使命や役割にこだわるのも、この現実世界だけの話ということが多く、現実をたくましく生きる術としては大変優れたアイデアと言えますが、囚われすぎると自己の真の解放から遠ざかることもあるということです。

まあ、そういった面では、自分の役割や使命は自分が決めればよく(可能性はたくさんありますので)、決めればその通りの世界観を自らが構築していくことになりますので、使命に生きることができやすくなるとも言えます。

あと、ひとつ留意しておきたいのは、未来や過去にあまり執着するのではなく(それに意味がないわけではありませんが)、自分が置かれている環境や状態、自己の経験が、実は使命や役割として、もっとも注力しなくてはならないことなのだと気づくのは、重要だということです。

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