僕(私)なりの愛ですよ。
ちょっと前の(原作付)アニメになりますが、「四畳半神話体系」という作品があります。
※ややネタバレになりますので、この先は読むのに注意してください。
この作品は、京都の大学生の主人公が、自分のキャンパスライフをバラ色にすべく、満足行かなかった生活を何度も時間遡行してループするという物語です。
時間を巻き戻すというより、別々の並行世界(パラレルワールド)を、ある地点(時点)からやり直すというのが正しいかもしれません。
結局、何度やっても納得行かなかった主人公は、とうとう四畳半に引きこもる(これがタイトルの意味にも関係していきます)という生活パターンを選んでしまうのですが、最終的にはそのことにより、大きな示唆を得ることになります。
ところで、毎度毎度、どの人生パターンを選んでも、登場してくる重要な人物は同じで、特に主人公に、まさしく悪魔のように関わってくる友人がいます。
主人公は彼のことを、いろいろと自分をそそのかして、キャンパスライフを台無しにしてくれる悪友だと見ています。彼さえいなければ、まともな大学生活が送れるのに・・・とさえ思っています。
しかし、友人はどの人生パターンにおいても主人公に強引なくらい関わって来て、主人公が、「なぜ俺にそんなこだわる(関わる)んだ」と文句をを言っても、「僕なりの愛ですよ」とにやにや笑うだけです。
この悪友のセリフが、ラストシーンでは極めて重要なものとして活きるところが、このアニメの真骨頂でもあります。
※ここからは本当にネタバレですので、興味のあ人は、アニメを観てから読んでください。アニメとは関係なく、ただ今回のブログ記事の趣旨を読みたい人は、このあと途中読み飛ばして▼印のところから読み始めてください。
あとで主人公は、不満足でくだらないキャンパスライフを過ごしてしまったと思った自分の人生経験が、実はとてもすばらしい恩恵に満ちたものであったことを知ります。
特にあの悪友がいたらこそ、自分の人生が充実していたものであったことに気づくわけです。つまり、悪魔が天使であったことを知るのですね。
しかも悪友の顔が、悪友と思っていた時は、アニメでも本当に悪魔みたいな顔に描かれているのですが、最後に主人公が彼の真の姿を知った時、というより、彼に対する認識が変わった時、友人の顔もまともな、むしろかわいらしい顔に変容します。
言ってみれば、主人公が思い、認識してた姿(像)がまさに彼の体験していた世界であり、彼の信じていた通りのものがそのまま見えていたというわけなのです。
このアニメの描くところは、タロットや精神世界でもよく語られる内容を面白く、わかりやすく伝えているように感じます。
▼どんな苦しみや悲しみ、あるいは喜びも嬉しさも、様々なものが用意されている世界設定がなければ味わうことができません。
特に人間と感情は重要なファクターです。
中にはあなたにとってひどいと思う人もいるかもしれませんが、みんな役割があり、悪魔のようでいて天使でもあるのです。
彼ら彼女らがいるからこそ、大局的な意味で、楽しい人生経験が送ることができているのです。
そのことは現実に今まさに経験している最中には、なかなか気づくことができません。
おそらく、死後私たちはそのことにすべて気がつかされるのでしょう。
よく言われるように、それは総合的な視点(相手側の感情や見方などが入るもの)も得て、人生を振り返ることができるからではないかと考えられます。
仏や神という存在概念は、多様性や同時性というものが挙げられます。同時にいろいろなレベルやパターンで存在することができ、また、同時にあらゆるものの知覚を認識することができるというものです。
つまり、一でありながら多でもあり、その逆も真です。
私たちは亡くなると仏様と呼ばれるように、たぶん、この同時知覚、一であり多である感覚を神レベルの完全とは行かないまでも、得ることができるのではないかと推測されます。
そのため、自分が経験してきた人生を瞬間的かつ、同時的に(どの時代にも存在すること)、また多様的(あらゆる人物の思い・角度的)に体験し直すことになり、自分だけで見てきたものが、いかに偏りがあり、狭量なものであったのかを悟ることになると想像できます。
結局のところ、人生のあらゆる経験・体験が、すべて神(言ってみれば自分自身)からのプレゼントであったことに気づくことになるのでしょう。
しかしながら、何も死後まで待つ必要もないと思われます。
マルセイユタロットは生きながらにして、死後体験するであろうことを認識させる手段が描かれていると言われています。
今までの説明からしましても、その鍵は俯瞰した見方と多様なものの見方(感じ方でもある)にあると言えます。
また一方で、客観的に人生を見るようなものとは反対の、その時その時に集中する力や熱中性も必要かと思います。
そうでなければ、ただ冷徹な人生観しか得られないことになり、感情は入らず、本当の意味で楽しい経験をすることができません。(輪廻転生説を取り入れるとすれば、私たちが過去生を忘却して生まれる理由もここにあると、ひとつには考えられます)
こうして人生を過ごしていく時、あらゆるものが「僕・私(それは自分自身)なりの愛ですよ」とわかってきて、世の中は結局は「愛」なのだという結論になるわけです。(笑)
そう思うと、どんな選択も自分の愛であり、間違いということはなく、迷っていても楽になるでしょう。
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