神社仏閣の参拝における本質システム

常識的には新年になって、初詣で皆さん神社などに参拝されると思います。

ですが年末に一年に感謝の意味を込めて、参拝されるのもよいと思います。

そして何も遠くの、それこそパワースポットなんかに行かなくても(楽しみながら旅行的に行くのもありですが)、近所の神社でもそれは可能です。

ここで、私は神様うんぬんの話をしたいわけではありません。(個人的には無神論者というわけではありませんが)

参拝する、その機能的な意味について考えてみたいのです。

日本の神社の場合は、ご神体が「鏡」になっていることがほとんどでしょう。これには諸説ありますが、参拝者の自分自身を映し出す「鏡」となっているという話があります。

つまりは、自分自身がご神体になるわけですね。

マルセイユタロットは神性を回復するさせるための神聖ツールであるという立場を取る私としては、人に神性が宿ることは実感としてあり、日本の神社の、この鏡ご神体システムは見事だと思わせることがあります。

たとえそこに神なるものがおわすかどうかは別としましても、心理的に考えますと、少なくとも一年に一度(以上)は、たいていの人は神社に参拝いたしますので、自らを鏡によって振り返っていることになります。

ただし、それを意識する必要はあるでしょう。しかし、意識していなくても、日本人ならば、神社に参るという一連の行為が、神聖さを強くイメージさせ、そうした超越的なものに敬意を払うという仕組みが自然にできるようになっていると言えます。

最低でも、神社に参ることで、日常的な意識とは別の意識でその場にいる経験をすることになります。

この意識の「聖なる」ものへの切り替えシステムが、非常に大切だと私は考えています。これは精神的(霊的)リセット機能でもあるからです。

ということは、あまり雑多な状態で参るより、静かな環境や気持ちになれる場所・時間帯のほうがよいのかもしれません。

それでも、たくさんの人が訪れる初詣であっても、お社の前に来て、手を合わせて祈る時、誰しも敬虔な気持ちになっているでしょう。この瞬間だけは、日常的な意識のままでいる人はとても少ないと言えます。

このように見ると、神社やお寺の参拝自体が、一瞬であっても、自分の純粋な魂や神性(仏性)にふれさせる機能が働くよう設定されていることがわかります。

それは大変有り難い話です。

楽しく友人やパートナーと一緒に参拝するのもよいのですが、参拝が自分を振り返る自動システムになっているようなものですので、いっそのこと、もっと自己を省みることに徹し、境内に入る時から、列に並んでいる時から、一年を回想し、新年に新たな思いを結び直してみるのもよいでしょう。

すると、人によってはあまりよくない年で苦労ばかりの時であったかもしれませんが、ふと、どこかに救済があったこと、飛躍や脱出のチャンスがあったこと、大変なだからこそ味わいのある年だったことに気がつくかもしれません。

反対に充実した年を体験した人は、万事順調だったわけではなく、誰かの手助けや幸運とも思えるようなことがあったことを思い出すでしょう。

「ああ、やはり人生捨てたもんじゃないな」とか、「自分に神(性)や仏(性)はあるのだろうな」とか、少しでも感じられたら幸いです。

参拝して神や仏にすがるのではなく、すでに自分や自分の人生には在るといことに気がつくのが真の参拝であり、その報告をして幸せになるのが一連の儀式とシステムと言えます。

さて、今年一年、時々や偶然でもブログをお読みいただき、ありがとうございました。ご縁に感謝いたします。

なお、来年は1/3から記事をアップする予定です。

皆様、どうぞ、よいお年をお迎えください。

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