食べ物問題に対する、ある視点の一考察
最近に始まったことではありませんが、食べ物の問題について、また話題になっていますよね。
とあるハンバーガー店とかのあれです。
もちろんセンセーショナルに報道する過剰なマスコミのやり方にも問題はあるのでしょうが、私個人としては、事の本質は、また別にあると考えています。
それは、タロットを展開したり、タロットを通じて感じたことからというのもあります。
そこで思ったのは、まず怒りや悲しみなどのネガティブな思いが根底にあること。
次に日本人の戦争体験も実は影響しているのではないかということです。
怒りや悲しみについては、書き出すとあまりに長くなりますので、あえて単純にしますが、今、時代の大きな変革点にあたり、これまでの常識や方法が通じなくなってきたことから来る「ねじれ」のようなものが、人々の個人意識の中にもあり、また新しいものに対する「抵抗」もあって、そこから怒りや悲しみは現れているように感じます。
要するに、頑張ってはいるけれど報われないとか、変わろうとしているけれどうまく行かないとか、何をどうやればよいのかわからないというような「不安」と「恐れ」が、「怒り」にも変貌しているということなのです。
そしてつまるところ、その怒りをぶつけやすい対象や話題に向けて、そのエネルギーを放つことになります。
それで、ここがもっとも重要と言いますか、要点になるのですが、その怒りを向ける対象が、身近で自分が「上に立った」り、「物言える立場」だったりできると自分が思っている状況で、それが顕著に現れるのです。簡単に言えば、「お客さん」である時です。
ですから、怒ったり、悲しんだりしている本当の対象に向けてではないことが多いのです。
まあ、言い方を換えれば、「何だか許せない!」というような感情が、自分がモノ言えそうだと思う立場の時に、過剰に表現されるということです。
もちろん全部が全部そうでなく、きちんとしたクレームというのもありますよ。
あと、これはたぶんあまり言われないことで詳しくは今回は述べませんが、タロットカードにもある「正義」の天秤のバランスの揺り戻し(調整)があり、人々の心の中に、「自由と正義」ということでの葛藤と、真のバランスを回復させるための働きが起こっているということです。
そのためには、強い「正義」の剣が振るわれることもあるのです。
これは「正義」への試練とでも言っていいかもしれません。
現象として、人や企業、社会を苛烈に批判したり、責めたりするようなことで現れ、また逆に、「許し」を大きく掲げて、広げてみせる場合もあります。
どちらがいいというのではなく、あくまで真の正義に戻るための表現なのです。
といえば、マルセイユタロットを知る者ならば、ようやく次元が変化してきていることを絵図で確認することができるでしょう。
さてもうひとつ、戦争体験の要因です。
これはおそらく戦争(第二次世界大戦)の時に、日本では非常に物資が不足し、特に食べ物がなく、多くの人が飢餓感(兵士も一般の人も)に苛まされたことが関係していると思います。
あの時の猛烈な飢餓感が、今の一見裕福にも思える社会を現出せしめる原動力にもなったと考えられますが、一方で「恨み」の想念のようなものが色濃くエネルギーとして残存しているのではないかと思います。
そこで食べ物に対する執念と言いますか、それがもともとこだわりを持ちがちな日本人に、特に拍車がかかったのではないかと推測しています。
まずは満腹になること、満たされることが「残存思念の欲求」としてあったのでしょう。それはほどなく、社会的には達成されたと言えます。
この段階では「満たされること」がメインテーマですので、価格も安く手に入ったほうが当然よくなり、価格と効率性の追求もなされました。
そして次なる欲求は、質の良さや安全性ということになってきます。
しかし、高いお金を払う場合は、その分の余裕もありますから、生産者も提供者も十分なものを用意できるでしょう。
ところが、もともと食べ物に対しては、飢餓感から欲されているものですので、その奥底には、やはり大量に仕入れたいという消費者の心理と言いますか、「呪い」のようなものがあり、どうしても一定のお金に対して安いほうがたくさん手に入るという深層心理によって、お金の対価に見合う割り切りができにくくなります。
つまりは安かろう悪かろうでも、食べ物に対してのこだわりがすごくて、妥協ができなくなるという矛盾を抱えるわけです。
もちろん安くても、きちんと安全に提供しなくてはならないことは言うまでもないのですが、あまりにも食べ物に対するこだわりが凄すぎて、バランスを欠いたことまで求めようとしている嫌いもあるのです。
その原因のひとつには、実は、日本人の戦争体験による「食べ物の満たされない思いから来る飢餓感」が根底にあると想像しているわけです。
これはですね、自虐的に一括して戦争の反省をするのではなく、当時の日本人がどのように思い、行動し、日常を体験していたのかということを知って、供養(浄化)しなくてはならないところが残っているのだと思います。
供養というと、何か宗教的で霊的な感じになって怪しく思われるかもしれませので、あえて別の言い方でしますが、「飢餓のデータ」として強く重いものがあるので、それを中和させたり、クリアーにしましょうと言っているのです。
私たちの祖父母・先祖から続く縦の流れを引き受け、一人一人の思いでクリアーにするということです。
ですから、結局は自らを見つめることになり、自分たち日本人の対しての思いと誇りを持つことが大切になってきます。
言葉で表すとするのならば、
「もういいんですよ、苦しまなくても、私たちが責任をもって日本を良くしていきますから」
「あななたちのおかげで、こんなにたくさんよいものが食べられる時代になりました。代わりにお腹いっぱい食べさせていただいています。これからも食べ物は大切にしていきます」
というようなことであり、
このようなことがきちんと真剣に宣言できるようにしていくことが、問題をよいほうに変えていくと思います。
これは食べ物の問題を例にしましたが、本当は人間としてのあり方が問われているのです。
一人一人の思い(ワガママとは別です)を本当に尊重することで、現実を無視したお花畑的な均一思想になるのでもなく、全体主義的に再び戦争する態勢に巻き込まれるのでもない、調和的バランスを回復できると考えています。
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