リアリストとロマンチスト

先日、京都でタロットの受講生の方々とともに新年会を行いました。

その時に語った内容の一部を、ブログ記事に書き換えて、ご紹介したいと思います。

それは、今回のタイトルにもあるように、ロマンチストとリアリストということがテーマです。

言い方を換えれば、理想主義と現実主義みたいなことですが、厳密な英語の意味でのそれではなく、和製英語と言いますか、もっといろいろな意味を含めてのふたつを表しています。

ロマンチストとは、まさにロマンや夢があったり、ちょっと普通ではできにくいようなことをしたり、語ったりする人をここでは言うことにします。

逆にリアリストとは、現実的に物事を考えがちな人、実際やリアルなこと・結果を重視する人、普通やルールに従って生きることをよしとする人、またはそうなってしまう傾向の人などとします。

さて、このところ、自分らしく自由に生きるということが、とみに叫ばれています。

やはりこれまで画一的で、生き方の選択肢もそれほど多くなく、自己表現や個性を発揮することが許されなかったり、自分そのものを追求しなくても良かった時代があったりしたことの影響があると言えます。

しかし現在、ネット社会の普及によって、個性ある生き方、意見、主張もどんどん発信されていくようになってきました。社会そのものが大きく変化してきていることも挙げられます。

そうして、今まででは考えられなかったような仕事や職業、生活スタイルを実践している人、目から鱗のような思想、新鮮であこがれるような考え方と行動というのが、人々の目にふれることになりました。

その結果、世の中のリアル(現実感覚、重要と思う実際の価値)というものが揺らぎ始めました。

つまりは、これまでの常識が非常識であったり、非常識と常識の境目がなくなってきたりしているわけです。

このことで、感覚的には夢か現実かの区別がつきにくくなるとも考えられます。

ここでいう「」とは、夢想・幻想的な、例えば夜、私たちが見る夢のようなものではなく、いわゆる「ドリーム」としての夢、希望や願望、理想として思い描くイメージみたいなものと思ってください。

現実と夢との境目があいまいなネットにおいて登場する人物たちは、現実の人物ではあるでしょうが、この人たちの見せるものは、現実ではないのかもしれないのです。

とはいえ、全くの嘘やデタラメでもなく、それどころか、きちんと実在している人が、実績や結果を残している場合も多いわけです。

そこで、人々はロマンを思いながらも現実感を持ち、「ああ、こんなスタイルで生きている人がいるんだ」「こんな仕事ができるんだ」「こんな方法で成功している人がいる」「この人のような考え方や生き方だと楽になれる」「幸せはこんな感じでつかめるんだ」・・・と思うわけです。

自分たちがネットで見ているものはすばらしいものであり、そこにはロマンがあると感じます。

ロマンを見せている(魅せている)人たちは、たいてい既成の枠からはずれ、思い切った考えと行動をしています。そこは魅力的であり、あこがれる要素でもあるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、そのような人たちは「愚者」です。

「愚者」は型にはまらず、自由であり、楽天さをもった、普通の人にとっては一種のロマンの存在と言えましょう。

一方、ロマンを見せられている側は、多かれ少なかれ、現在の生活やスタイルに、不満や未熟性(もっとよくなるという思い)を抱いていることでしょう。

そうでなければ、人のことでロマンを感じることは難しいです。ですからロマンを生きていないという意味では、リアリストであるのです。

ただ、先ほど、ロマン性(夢や理想性)とリアル性(現実性)の境目が、特にネット社会ではなくなりつつあると指摘しました。

そう、リアリストである人たちも、ネットの情報洗礼を浴びているうちに、いつしか、自分にもロマンが宿り(復活し)、ロマンチストへと変貌し、ロマンを見せてくれる人の門下に入ったり、真似をしようとしたりします。

ところが、このロマンを見せてくれる「愚者」タイプの人たちは、もともと「愚者」気質を多分に持っており、型破りなことを平気で行えるところがあります。

こういう人たちはロマンチストではあるのですが、そのロマンは実はリアルなのです。

「愚者」タイプの人は、夢はかなうと本気で思っていたり、普通の人が夢やロマンのように感じるものでも、リアルに思ったりすることができるのです。

言い換えれば、ロマンのようなことでも、それを実現する可能性とその確信性を、広く強く持っているということです。

あるいは、もともと普通のタイプであっても(「愚者」タイプではない人)、ある事件や自己改革を経て、自分の中にある愚者性を目覚めさせたので、今は人(様)変わりしてる可能性も高いのです。

つまりロマンを見せている人は、ロマンチストのように見えて、実は当人たちの範囲では非常にリアリストであるのです。

またリアリストなので、この人たちの「現実」も、当人たちの思う(願う)状況を現出させやすくなっています。

しかし普通の人(普通のリアリスト)にとっては、ロマンはリアルではなく、あくまでロマンのままです。リアルと感じている(確信している)部分が、狭く浅いのです。(極めて常識的であるということ)

しかも、文字通り「ロマンチスト」であり、狭いリアルを生きながら、「いつかは脱出できる、変わる、救ってくれる」というような願望で、まじないのように何かをランダムに試したり、ただ夢を見ている状態の人も少なくありません。これはリアリストのようでいて、本当はロマンチストということになります。

しかし、だからと言って、ネットなどで活躍している魅力的なロマンチスト(実はリアリスト)の方々のようにならなければいけないというわけではありません。

実はロマンを見せている人の言いなりでは、普通の人(狭いリアルを生きている人)が、ロマンをリアルに変えること(実現すること)は難しい場合があるのです。

メーターでいえば、極端に針が振っている地点の人がロマンを見せている(魅せている)人であり、普通の人との位置の間には、結構な距離があるのです。

その距離をどうする(詰める)かが、非常に重要です。

ロマンは意志や行動力のエネルギーになりますが、ジャンプしても届かない距離の場合は、その距離を縮めるテクニックが必要です。

あこがれへのエネルギー(ロマン)だけでは、何度かチャレンジしているうちに、エネルギーを消費してしまい、飛び上がれなくなります。

ここでリアルな視点を入れます。

メーターの例えを出しましたので、それで続けますと、メーターの目盛りを刻むステップを取り入れるというのがひとつの方法です。

ロマンを見せてくれる人で、良心的な人ならば、そのステップをうまく指示してくれたり、導いてくれたりするでしょう。

または、目盛り移動やステップは、自分でコントロールすることも可能です。

ロマンのようなリアルを実現している人は、ロマンチストでありながらロマンをリアルと感じる力と範囲が大きいリアリストだと指摘しました。

マルセイユタロットに従えば、その過程(普通の人がロマンをリアルに変えていく道筋)も自然に描かれていることに気がつきます。

マルセイユタロットを知らない人でも言えることは、ロマンをリアルに、まずは心(思い方、考え方、感じ方)から変えていくテクニックと実践を行うことが鍵です。

何もしなくても、人生に起こる(経験する)大変な出来事によって、思考と感性は変化し、いい意味でも悪い意味でも変容します。

そのことで、人によっては、これまでのロマン(性)を、リアル(現実)に変貌させていくことがあります。ただそのリアルは、いいことも悪いことも含みます。

悪いことというのは、例えば、今までは思いもしなかった悲劇のパターン(不幸、不運、問題)を、自分が経験によってリアルに信じ込むようになり、それに現実感が出て、悲劇(と同じ性質もの)をまた実現させてしまうようなことです。

しかし、できればいいほうに変えたいですし、大変な経験をせずとも、意識的に学べばよいわけです。

そして精神や考え方がまずは重要ですが、次にはスモールな規模でも実践し、結果や成果を確認することも大事です。これは先述した「目盛り」を移動していくことと同意です。

要するに、「愚者」は「愚者」でも、まさに「愚か者」のような夢想的ロマンで動くのではなく、今あなたが感じているリアリティ(リアリスト的な要素)をロマンと融合させ、そのロマンをリアルと感じる力と実行力を拡大させていくことです。

簡単に言えば、意識の拡大と言えましょう。それは覚醒のステップでもあるのです。

マルセイユタロットで説明すれぱ、自分の中にある「愚者」にフォーカスし(それはロマンを見せてくれる人によって蘇らせることができます)、それを活性化させ、同時にカードでいえば、「手品師」や「皇帝」「吊るし」などの部分も重要視します。

狭いリアリティの範囲で生きている常識人(私たちのほとんどです)は、その意味で、「愚者」的精神と行動力が必要となるのです。とはいえ、一足飛びににロマンを目指すと、危険や欺瞞に囚われます。

ということで、「愚者」を目覚めさせながら、安全にロマンのリアル化を進めるとするならば、「できない」と思っていたことを、自分の今の現実の範囲内で、できると思うことに少しずつでも変えていくことだと表現できるでしょう。

一気にロマンチストになって、すべてがロマンになってしまっては問題です。マルセイユタロットでいう「悪魔」につながれる危険性もあります。

その(カリスマや「愚者」を色濃く表現できている人、先導的役割のある)人だからできている部分と、自分ができる部分と方法は、区分けしておくことも時には大切です。

誰も他人であるその人そのものになることはできませんし、その必要もありません。

なぜならば、究極的には皆同じでも、個性表現としては、一人一人全員違う存在だからです。(そのことに宇宙的価値があります)

そして人は皆、ロマンチストなリアリストであり、リアリストなロマンチストなのです。極端が似合う人もいれば、少しずつや、穏やかさが合っている人もいるのです。

「自分らしさ」で生きることは、自分の生きている実感と心地よさが多く感じられるものだと思います。

成功や幸せを求めている今の自分が、何だか苦しくして、つらい、腑に落ちない、違和感があるということは、自分らしく生きていると言えないこともあるわけです。

何かにならねばならないということを、肩の力を抜いてあきらめた時、光や答えは意外に出てくるものなのです。

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