類友の法則とタロット
「類は友を呼ぶ」ということわざがあります。
私は、これは結構、真理に近いものではないかと思うことがあります。
最近では、いわゆる「類友の法則」などと略されて、スピリチュアルなことや願望実現、成功法則の手段・論拠に使われることもあります。
このことわざでいうところの「類」というのが、周波数や振動数、波動ということになるのかもしれませんし、もっと別なものであったり、総合的なことを指したりするのかもしれません。
例えば同じような性格・行動パターンということもあるでしょうし、収入や金銭的価値で計れる同じレベルということもあるでしょう。
とにかく同じ「たぐい」のものが引き寄せあったり、集まったりするわけです。
ですからそれは「人同士」だけではなく、人と現象(事柄)、現象と現象同士という場合もあるように思えますし、もっと言えば、見えないもの同士ということもあると考えています。
結局のところ、類が友を呼ぶのですから、逆説的に見れば、友を変えたければ自分の「類」を変えればよいということになります。
ここでいう「友」とは実際の仲間や友人というだけではなく、現象(環境や出来事、状況)と見てもよいです。
自分の類、つまり種類や属性を変えればよいのですから、それを具体的なもので表現すれば、仕事や土地、性格みたいなことになるかもしれません。
ただ、タロットでも言われていますが、外側のものを変えるより、まず内側のものを変えた方が実質的には早い場合があります。
そういう面を示唆しているという意味では、マルセイユタロットの大アルカナと小アルカナの構造はよくできていると思います。
内面というのは、いわゆる思考(考え方)とか、感情(におけるデータの見方・とらえ方)とかの部分になってくるわけです。
内面から変えるということは、例えれば「体癖」を直すというのに似ているかもしれません。
どこか体に不調や故障、あるいは無理に負担がかかっている部分があるので、それをかばったり、バランスを取ったりするために、変な癖がついてしまっている場合があります。
だから、いくら歩き方が変だからと歩行スタイルを修正したところで、根本原因が治っていないので、またぞろ、今の自分にとって楽なスタイルに戻るわけですが、それが「変な姿勢」で歩いているように見えるわけです。
従って、いくら外側の「類」を変えたところで、自分の根本やパターンが変化していない限り、またそれと合う「類」とつるむことになります。
まあ、ただ、外側からの影響が皆無というわけでもなく、例えば正しい姿勢で歩いているうちに、大元の原因のほうまで修正されてしまうようなことが、実際に身体でもありますので、これと同様に、環境や外側からのアプローチによる「類友変化」もあるとは考えられます。
さて、最初のほうにも書きましたが、「類友の法則」は、人同士や物質的範囲だけではなく、非物質的、いわゆる目に見えない領域までは適用されると思っています。
すでに思考や感情の話もしたので、これだけでも、目に見えない世界に入っていると言えないこともないのですが・・・
この場合の「目に見えない領域」というのは、いわゆるスピリチュアル的なものであり、エネルギーとか霊的な領域とかというイメージです。
いや、むしろ大元は実はこの領域にあり、現実・現象界においては、この映し姿が見えているだけなのではないかと思うこともあります。
まあ、照応のルールも考えられますから、この逆の、見える世界から見えない世界への影響もあるとは思います。
どちらにしても、スピリチュアル的といいますか、あえてファンタジー的な例えで言いますと、悪魔的な人には悪魔的なエネルギーや存在がつき、天使的な人には天使的な存在がサポートすると表現すればわかりやすいかもしれませんね。
また見えない世界の中でも類友法則が働き、見えないもの同士の同じ類のものと結びついていると想像できます。
ちょうど、見える世界と見えない世界のそれぞれに横のつながりとして類友法則が働き、さらには見える世界と見えない世界の縦の関係でも類友法則が働いているというようなクロス・十字的なイメージを持てば理解しやすいでしょう。
ただこれも類友法則ですから、自分が変われば、目に見えない存在やエネルギーの領域との関係も変わると考えられます。
要するに、自分の意識や心次第ということになるでしょうか。
やっかいなのは、現実の類友もそうですが、同じ類の中では自分の状態が客観的にわかりづらいということです。
周囲の皆が自分と似たような「類」ですから違いがわかりにくく、自分が異常な状態(何をもって異常か普通かも本当はわかりませんが)であっても、気がつきにくいのです。
犯罪をする人が犯罪者集団の中にいれば、それはそれで居心地がよく落ち着いているでしょうが、しかしそれは普通の人からすれば、おかしな、まさに犯罪する悪いグループや人たちという風に思います。
同じ類の中にいながら、自分の存在が浮いたり、なぜか違和感が出たりしてくると、それは自分の「類」と、今の仲間や集団・友人たちとの「類」の違いが出ている(出てきている)ということになります。
もしそれが自分の成長の足を引っ張っている類友集団であるのなら、それは今の類友からの脱出や、類友を変化させるチャンスになります。
もちろん反対もあって、本当は成長させてくれるグループにいながら、違和感を覚えて出てみると、新しい類友たちは、自分を堕落させる者たちだったということもあるわけです。
と言っても、とても大きな視点で見れば、すべては自分の選択であり、やはり自己成長のための必要な道筋であったり、魂の様々な経験のための必然選択であったりします。
反対のものを経験することでその逆のことを強く実感させるなどのことは、こういうパターンではよくあります。(だからといって、どちらかが正統でどちらかが悪いものという意味でもありません。拡大や幅を増やすというのが目的と考えてよいでしょう)
マルセイユタロットを使って類友を変調させる(自分を変化させる)ために使うこともできますが、類友の変化の兆し(それは自分の変化)をカードの象徴によって知ることもでき、あるタロットの並びの法則に、それは顕著に表されています。
またタロットの展開において、変調に関わるカードが出現したり、強く特定のカードの印象が意識されたりする時(これはカードの象徴と意味を知っておかないとできません)も、それはあなたの類友が変化する時であり、自己の成長に基本的には根ざしているものと考えることができます。
人生にただ翻弄されるのと、こうしてカードで指針を得ながら(象徴として自己の認識整理・統合しながら)進むのとでは、大きく違ってくるのです。
余談ですが、タロットの種類によっても類友法則が働き、例えばマルセイユタロットが好きな人と、他の種類のタロットが好きな人とでは、それぞれに人も同じ類の人が集まることが多いように感じます。
ですから、自分がこれまでとは違うほかのタロットを学習したいとか、興味を抱いてきたとかという場合は、自分の類が変わってきたことを意味することもあるのです。
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