パチンコの不思議な世界
いきなりタイトルで引かれた方もいるかもしれませんね。(苦笑)
タロットのブログなのにパチンコの話題とはこれいかに?ですが、実は、たまにタロットの受講生の方にも、余興で時々私が話している内容でもあるのですね。
私は大学生の頃にパチンコにはまったことがあり(苦笑)、以後社会人になってもちょくちょく熱心にやっておりました。ですから、まあ、結構事情に詳しいところはあります。
そしてタロットを学び、いよいよスピリチュアルな観点で世界を見るようになってからは、パチンコがいかに興味深いものであることを、別の観点でもってあとで気がついたのです。
興味深いと言っても、ギャンブルの部分とか遊技の面白さのことを言っているのではありません。
それは端的に言うと、パチンコを提供している側とお客との関係であり、その間にある「パチンコ」台という遊技ゲームが介される仕組み、この一連を含めてのスピリチュアル的視点です。
このブログの読者には、パチンコを知らない人も多いと思いますので、まずは、パチンコ台のシステムについてお話しします。
お客はお金を払ってパチンコ玉を買います。(現在では台の横にお金を入れるところがあり、自動的にお金を入れると玉が出てきます) そして台にあるハンドルを調整して玉を打ち出します。
打ち出された玉は、台に開いている穴に入り、その瞬間、台の盤面についているモニター画面のデジタル数字(絵柄のこともあります)が回転し、同じ数字が3つ揃えばフィーバーと言って、大量の玉が台から出てくるようになっています。(「フィーバー台」と呼ばれる種類のもの)
そして出た玉の量に応じて最後に品物に換えるわけですが、三点方式と言いまして、その品物をまた別のところでお金で買い取ってもらえる仕組みがあり、それでお客は最終的には玉をお金に換えることができるわけです。本来は違法性を追求される部分もあるとは思うのですが、まあ、警察組織も暗黙の了解みたいなところがあるようですね。
それはさておき、そのいわゆる大当たり(数字が揃う当たり)を引き当てるには、台の種類によって異なりますが、現在はおよそ400分の1から100分の1の間の確率になっているようです。もちろん当たる確率が低いほど、出玉が大量に期待できるようになっています。その分、お金もつぎこまれる(デジタル数字を回す回数を多くしなければならない)ことになりますが。
どんな確率であっても、結局、玉が穴に入ると同時に台の内部カウンターで機械的抽選が行われ、当選か否かが決定しているわけです。つまり玉が入った瞬間にはもう当たりかはずれかが確定しているのです。
ところが、今のパチンコ台では技術も進み、大当たりまでの演出効果が非常に複雑にされています。
どういうことかと言いますと、玉が穴に入って数字が止まるまでの間に、長いもので5分近くもかかって大当たりかはずれかの画面(台についている数字の回るモニター)演出が行われているのです。
先述したように、実際は玉が入った瞬間に、もう当たりかはずれかは決まっているのですが、結果をすぐに出すのでは面白くないので、その間をできるだけ長くワクワク、ドキドキ、ハラハラを楽しんでもらうおうと演出されているわけですね。
このシステムは、おそらくパチンコを趣味としたり、よくしたりしている人にはわかっているはずなのですが、実際にパチンコ屋に入って遊技しているお客さんを客観的に見ますと、実に不思議な光景になっているのに気がつきます。
それは上記の当たりはずれの演出時間の時に、台についているボタン(演出用についている押ボタン、それ自体に当たりはずれに作用させる効果はありません)を必死で強烈に押し続けている人がいたり(ボタンが壊れるくらいの勢いです)、数字がそろうことを祈っているのか、何やら手で妙なおまじない的な仕草をしたり(きっとそれをして、過去当たったことがあるのでしょう)、まさに本当に両手を合わせて祈っている人もいたりします。
またはずれると、怒りにまかせて台を殴ったりする人、台に向かって罵倒したりする人、「当たれ!」と言葉に出してしまう人、出ないから(当たらない)と店員に文句言う人なども結構います。
当たったら当たったで、歓喜・興奮し、おそらく遊技者の心拍数は上昇し、アドレナリン、その他の快楽ホルモン物質も大量に分泌されていることだと推測できます。言わば、演出された世界で本当の感情や身体反応を経験しているのです。
さらには、社会問題にまでなっていますが、小さいお子さんを車内に置いたまま、ずっとパチンコに興じたり、お金がないのにサラ金にまで借金してやり続ける依存症の人がいたり、とにかく不思議な世界がそこにはあります。もちろん普通に正常に遊技している人もいます。
しかし、そういう人たちも、もしパチンコに出会わなければ、そういう状態になっていなかったかもしれませんし、どの人もパチンコ屋で遊技している自分と、外で普通に生活し、仕事している時の自分とでは違う部分はあるでしょう。
ともかくも、結局、台は機械であり、そしてまた店側でも制御していることもあるのではないかと想像できます。(違法性はあるかもしれませんが、よく考えるとまったくの自然確率で任せると店はつぶれるでしょう)
少なくとも、玉が入った瞬間には当たりはずれの抽選結果は出ているのであり、それがモニターとして、結果として、台の現象として、まだ目に見えてないだけなのです。
いくら、演出画面を見て、祈ったり、おまじないをしたり、台を叩いたりしても、結果は途中で変わりません。
変わるとすれば、違法性のある裏で制御している台であり、それは店側のコントロールに関わることで、物理法則の意味では、遊技している人の意志や力で何とかできるものではありません。
さて、ここまで書いてくればカンのいい人は気づいているかもしれません。
そう、このパチンコの奇妙な世界が、なんと私たちの現実世界に似ていることかと。
私たちは、まるでこの現実世界でパチンコ台を打たされているようなものと言えます。
パチンコ台に当たるのが、まさにこの世界をゲームとして見た場合の、現実に存在する様々なツール、物質、楽しむ仕組みです。
楽しむ仕組みではあるものの、パチンコ台のように苦しみも、人によっては味わっています。ツール・パチンコ台はそれが仕事であったり、恋愛や人間関係であったりするとも言えます。
パチンコのお客が時には自分でもわかっていながら、傍目から見るとおかしな行動を取ってしまうのは、やはりその遊技が現実的な「お金」というものにからんでいるからです。
自分の生活に関わるもっとも明確な形のエネルギーであるので、皆、その獲得や喪失で一喜一憂し、必死になるわけです。単に景品が商品だけでしたら、そこまで依存したり、事件になったりはしないでしょう。
これと同様に、私たちの現実世界でも「お金」というものに多くの人が支配されていますし、その多寡、獲得・喪失で翻弄されています。
もっといえば生活基盤や生活満足のもとがお金になっているということです。結局、パチンコと同様、お金のあるなし、獲得と喪失のゲームに参加し、一喜一憂していると言えましょう。
またパチンコと同じように、ある確定した原理がありながら、それがわからず、あるいは気づいていても、演出に振り回されてしまうように、私たちは起こる現象にただ喜怒哀楽を示し、流れるままに生かされているような感じです。
現実世界でも、パチンコの遊技者と同様、おまじないしたり、神頼みしたり、奇妙なことを盲目的に信じたりしています。パチンコは店から出ることができますが、現実世界は出ることができません。
私たちは無知なお客になったり、ゲームの演出に無自覚に振り回されたりしていてはまずいことがわかります。
パチンコでトータルで勝つ人はまれです。ほとんどの人が最初は勝っても、つまるところ、負けてお金がなくなっていきます。ただ、勝ち方はあるとも言われています。バチプロなる人も実際に存在します。しかし、勝ったところで、それは本当の勝利者と言えるのかどうか、この点は重要です。(マルセイユタロットの「戦車」と関連)
現実世界(スピリチュアル的な意味)で、パチンコのお店に該当するものが何で、そのお店を経営し、許可している大元が何かはあえてここではふれません。皆さんで考えてみてください。
そもそ外国人から見ても、一斉に同じような台に向かって黙々とお金を投入し長時間遊ぶ姿は、何かの工場作業員をイメージさせるようで、とても奇妙なようです。
私自身、パチンコに興じている人の姿を見て、本当に愕然とし、恐怖しました。それはもちろんパチンコそのものへの恐怖ではなく、自分も含めて、私たちの多くが奴隷のように生きている(生かされている)のではないかという恐怖です。
それはまさに、マルセイユタロットで描かれているグノーシス的な思想と重なってくるものでした。
ということで、最後でやっとタロットが出てきましたが、残念ながら、この話は、このあたりで終了といたします。ま、打ち止めということですね。(笑) あんまり語りすぎるのもいけませんので。
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