他人に、過去や未来の自分を見ること。

いろいろな方のブログとかSNSでの投稿を見ておりますと、時折、まるで自分の過去を見ているかのような人の主張や内容に出会うことがあります。

たまには上から目線で、「まだまだ青いな」とか、「ああ、そんなレベルのこともあったよなあ・・」なんて感じることもあります。(苦笑)

ネットのアスキーアートでギャグにもなっている「そんな風に思っていたことが、僕にもありました・・・」みたいな感じのやつです。

しかし、よく考えると、これは自分や他人との相対的なレベル評価の話ではないことに気がついてきます。

よくスピリチュアルでは「人と比べてはいけない」「もともと人はすべて同じであり、誰もが完全である」ということが言われます。

本質的にはその通りだと私も思いますが、ただ実際的には、人は多くの他人と暮らしているわけであり、見える世界での「ある・なし」を中心にして、人と自分を比べてしまうのは仕方のないことで、単純に「比べるな」というほうが普通は無理です。

私はタロットをやっていくうちに、そういった表面的な精神論といいますか、スピリチュアルの言い方には違和感を持つようになり、「仕方なくやってしまいがちなこと」「当たり前に人がしてしまうこと」には、実は深い意味があるのではないかと考えるようになりました。

そしてだいたいは逆説的に考えればうまく説明が付くこともわかってきました。これはマルセイユタロットの「吊るし」のおかげと言ってもよいです。

詳しくはまたの機会に譲りますが、例えば先述の、私たちがつい人と比べるという話も、別にやってはいけないことではなく、そうすることに別の意味合いがあるということです。もっと言うと目的があるのです。

ただそれにとらわれてしまうこと、無意識なことが問題なのです。

さて、話を戻します。

いろいろな人に過去の自分を見て、「今は自分は成長したなあ・・」と感じるのはいいとしても、「この人はまだまだだな」とか思うのは、実は違う話になります。(それをしてはいけないということではありません)

結論から言いますと、すべては自分なのです。

他人に対して過去の自分のように思ってはいても、そう感じたあなた自身は、他人にあなた(自分)を見ているのであり、優越感や劣等感とは関係なく、ただ自分がそこにいるだけなのです。

(ややこしい話になって申し訳ありませんが)未熟や発展途上だと思う状態の自分も、一方で成長した、だいぶん理解したと感じている状態の自分も、やはり同時に存在しています。

時間という概念を入れればあたかも成長したかのように感じますが、おそらく本質的にはそうではなく、別の見方をすれば、未熟な自分は未熟でやはり今も存在するのです。

それをわからせてくれるために、他人という入れ物を媒体にして見せてくれていると言ってもいいでしょう。

他人は他人で存在していますが、自分が過去の自分に似ていると感じているその他人は、あなたの心の中に存在する自分なのです。

ということで、他人はあなたより劣っているわけでも、優れているわけでもないのです。

他人の人が本当はどんな人で、どういうレベルにあるのかは、その人でしかわからず、自分が考えている他人への評価・印象は、あくまでこちら側・自分が見て感じ、思っている他人であり、結局はそれは自分が創りあげた「他人(への評価レベル)」という存在に過ぎないわけです。

とすれば、他人への思いに自分を感じるということは、まさに自分の中の自分を投影して見ていることになるのです。

時には他人に、恥ずかしかった頃の自分を見ることもあるでしょうし、怒りや悲しみの時代の自分を見ることもあるでしょう。

もちろん反対に、喜びや楽しさにあふれた自分を見ることもあるかもしれませんし、過去だけではなく、当然未来の自分も見ることができるはずです。

つまり、何かしら、自分が反応する他人や他人の表現というのは、どれも自分の中の分身のひとつ、別世界(多次元)での自分と言えるかもしれないのです。

まあ、だからといって、よく言われるように受け入れなければならないとか、クリアーにしなければならないとか、そういうことを述べているわけでもありません。

人を見て自分が成長したと思うのならば、それはその通りで、何かの部分で成長したところがあるのですが、それは成長というより、気づきというのに近く、もともとすべて備える自分が、より元に戻りつつあるという観点で考えることができます。

いろいろな自分を他人から見る上で重要な視点を言いますと、それは受け入れるよりも否定できるかということにあります。

もちろん受け入れることも大切なのですが、同時に否定し、捨て去ることもポイントです。いかに過去や今の自分(の考え・信念)を捨てることができるか。こういう視点です。

時には未来の「こうなりたい」と思う自分すら否定し、捨てるのも自己変容では有効なこともあります。

マルセイユタロットでいえば、これらのエネルギーと表現は「13」になります。

あるいは「愚者」として、捨てるというより、こだわらない、気にしないようになるものだとも言えます。

「そんな時代もあった」「こんな考えをしていた自分がいた」「それでいいと思っていた」「これが正しいと思っていた」・・・

そのように思うことは、実はかつての自分の状態をいい意味で否定しているからです。(自分そのものを否定しているのではなく、そう信じていた自分の枠を超えたため、否定することもできるようになったという意味です)

私たちは様々なタイプの自分、未熟性や成長性のある自分を他人を通して見ることにより、新しい自分へと殻を破って生まれ変わります

別の言い方をすれば、完全性に次第に戻っていきます。

この世界は、本当に自分を見せてくれるワンダーランドなのです。スピリチュアル的な究極の考えでは、人は自分一人しかいませんので、それも当たり前のことになります。

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