タロットの絵柄から見る3つの様相

マルセイユタロットには、2、3、4そして、さらには10数の原理が、あるグループごとに隠されていたり、重要な意味をもっていたりします。

タロットは絵柄ののカードですから、私の考えでは、基本的には図像に重きを置くのが第一だと思っていますが、数についても無視することはできません。

そこ(タロットにおける数)にも当然、何らかの意味や意志が込められていると見えるからです。

ただ、先にも述べたように、タロットは図像がメインですので、数秘的なことを中心に考察し過ぎると、逆に本質を見失い、その理解に混乱を来することになるでしょう。

それはともかく、今回はマルセイユタロットの図像における3の数で象徴されるものを取り上げ、少し意味を考えてみたいと思います。

マルセイユタロットの大アルカナでは人物や動物を含めて、3つのモノが描かれている図像が比較的多くあります。

その多くは1対2の関係になっており、突出した一人や一つに対して、同等の二人やふたつという関係性でくくられているパターンがよく見られます。

ということは、そのひとつ、大体は真ん中に描かれることが多いのですが、その中心の一つと、ほかのふたつが、異質かニュアンスが違っていることを示していると言えましょう。

たとえ3つが本質的に同じものであっても、位置的に違うので、何らかの入れ替え、立場の違いはあるということです。

ところで、3といえば、キリスト教的には三位一体という言葉が思い浮かびます、

これは父なる神と、子であるイエス・キリストと、聖霊とが一体である、3つのようでいてひとつである(ひとつとして働きかけがある)という、実は、少しわかりづらい表現です。キリスト教の中でも、解釈はいろいろとあるようですね。

構造的にはカバラーの生命の木の「三角形」と真ん中のセフィロトとの構図に似ているところもあり、本当のところは頭の理解というより霊的な理解によってわかるというものだと思っています。

さてキリスト教の三位一体(の意味)とは違ってはきますが(しかしつながってはいると思っています)、自然界においても、ひとつのものが3つの様相を示すということはあります。

サイクルとして見た場合、始まり、ピーク、終わりという状態を3つで表すことができます。

言い換えれば、創造・維持・破壊ということになり、インドではこれを神として表し、それぞれに名前があります。

インドに限らず、世界各地で、この3つの性格をもった神々は出てきます。

要するに、私たちの住む世界・宇宙では、物事が始まり、維持されピークに達し、やがては衰え滅び、また新たに創造される(再生とも言える)という変化性と循環性があるということになります。

これは物理的にもそうですし、精神的にもそうでしょう。

例えば精神的に見た場合、感情での「怒り」を見れば、まずは怒りが発生し(始まり)、それが爆発し(ピーク)、やがては静まります。(終わり)

また、とてもポジティブになっていても、やがて平静になり、さらには落ち込んでいくこともありますし、その反対に落ち込みから普通になり、嬉しくハイに変わっていくこともあります。

会社でも売上のよい時もあれば、落ち込むこともあり、スポーツ選手でも優勝するくらいの勢いがある時と、負けが続く時と、勝ったり負けたりの両方の日々もあります。

芸人でも、そのサイクルやピークの度合いに違いはあるとはいえ、売れる時と売れなくなる時、そのどちらでもない時があるはずです。

いわば、どんな人も、またどんな分野においても、3つの様相やサイクルは繰り返され、まるで円が回転しながら進んでいく、あるいは後退していくように見えます。

巡り」という言葉がぴったり当てはまる感じですね。

そこで最初の話に戻りますが、マルセイユタロットでは3つのものは同じ描き方ではなく、1対2の関係になっていることが多いと述べました。

3つのものを同じことの様相の違いと見ることもできますが、実はどちらでもない中間(中立)のものに対して、どちらかに偏ったふたつのものがあるという見方もできるのです。

偏りのふたつのどちらかに引っ張られすぎると、うまく調和せず、問題のように感じる、現実に問題として認識される状態になる(不調和)と考えることもできます。

円の中で、等しい角度できれいな正三角形(60度のそれぞの角度を持つ)になっていれば、3つの様相は等しく、ただ状態や位置の違いでしかないとなり、図形的にも調和したものとなります。

しかし、三角形の点のひとつが異常に拡大されたり、強調されたりすると、歪なものに三角形は見えてしまい、調和が保てなくなります。

ここは矛盾するような話ですが、だからこそ、あるひとつのポイントを中心にして、ほかのふたつをコントロールする必要があるのです。

ほかのふたつが行きすぎないように、逆にひとつ地点をコントロールセンターとして意識する、こういった感じになるでしょうか。

始まりとピークと終わりという3様相がある中で、始まりは終わりと結びついていて(終わりは再生、始まりでもある)、そのどちらも方向性の違いでしかなく、またピークも反対の方向のピーク(山が逆のもの)もあって、それも結局上下の振り幅に過ぎないと見れば、ひとつの直線を中心として、私たちは上下や左右に揺れ動いているだけだと見ることができます。

結局1対2の関係に行き着くのです。

つまりところ、振り幅で遊んでいるのが人生であるということです。

こう考えると、少しは気が楽になってくると思います。

直線やコントロールセンターに当たるものが何であるかを見極め、そこに意識を戻すことができれば、振り幅を楽しむことができます

センター・中心がわからないままだと、振り幅そのものに振り回され、悩み多き人生となってしまうのです。

マルセイユタロットの図像は、これらの秘密を解き明かしてくれるでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top