同じことは伝えられない、しかし。
私はマルセイユタロットを教え、伝える講師をしています。
長年というほどではないですが、それなりに続いていますので、教えている時間と受講される方の数も、自然に増えることになってきます。
かつては普遍的な教えをきちんと守って伝えていこうという気持ちが強かったのですが、ずっと講師をやってきますと、同じものを全員同じ形で伝えることはできないということに気がついてきました。
また、伝えることだけではなく、受け取るほうにも違いがあり、例えば同じ言葉、文章、意味などをこちらが話したとしても、聴いている方々には、必ずしも同じ内容で受け取っているとは限らないのです。
これはイメージと個人の体験にもよります。
もし「太陽」という単語をこちらが言ったとします。
そうすると、全員、聴いているほうは確かに「太陽」を思い浮かべるでしょうが、それぞれの抱いているイメージ、想像した「太陽」は、おそらく、皆、違っているはずです。
ある人は自分の家から見る太陽をイメージする人もいれば、ある人は本や絵が描かれた太陽を思う人もいるでしょう。
黄色く輝いているのか、赤く燃えているのか、はたまた黒い太陽として不思議な映像を思い浮かぶ人もいるかもしれません。
このように、「太陽」ひとつとってもそうなのですから、ましてや文章ともなってきますと、かなり違ったイメージを抱いたり、意味ですら異なって受け取っていたりすると考えられるのです。
ですから、伝える方としても、どのレベルで、何を伝えるのかということを考えないといけません。
それは抽象と具体のバランスともいえますし、本質と周辺の、巧みな組合せと言ってもいいでしょう。
先述したように、結局、人はそれぞれの個性でもって、一人一人違うものとして受け入れていきますので、その前提を認めることが重要です。
と同時に、そのバラバラで多様な個人個人のイメージを、あるレベルにおいて統合したり、本質的・抽象的・象徴的にまとめあげたりしなければなりません。
タロットでいえば、一枚のカードの意味を、言葉では言い表せないけれども、「本質的にはこういうこと」だと心と頭で理解するようなことであり、また逆にいえば、その本質に至るためには、「具体的で個別的な例えや次元の話も、時には必要」であるとなります。
この具体的な例えや次元の段階が、個性的ということであるので、人によって違うわけです。
政治や仕事のことで表現したほうがわかりやすい人もいれば、恋愛や人間関係で例えたほうが入ってくるという人もいるようにです。
ということは、ここがとても大事なことですが、自分が理解しやすい、「ああ、そういうことなのね」と気づく例えや表現・次元こそが、自分に向いていたり、適しやすい(得意とする)分野であるということになります。
ネットの掲示板では、ある事件について、「ドラゴンボールで例えるならば、どういうことになるのか説明してくれ」(笑)みたいな風に書かれているのがありますが、それはアニメや漫画が好きな人には、そういう例えでしてくれるほうがわかりやいと同時に、その人はアニメや漫画の分野は得意であるということになります。
さらには、それぞれが個性の生き物であるとしても、「日本人ならば」とか、「関西人ならば」とか、「この年代の人ならば」・・・という具合に、典型的な共通項とか、共感できる要素で結ばれる集団というものがあります。
それでもって、グルーピングできる人数のデータによって、本質理解の助けとなることがあります。
抽象的なものの理解には、できるだけ多くの共通因子や共通項で例えるか、個別になじみのある分野で例えるかで、わかりやすさが変わってくるのです。
あと、伝えられたものをさらに自分が伝えていくということになりますと、伝言ゲームではないですが、微妙に最初の伝達からズレが生じてきます。
コピーを重ねるうちに、原本が何であったのかがわかりづらくなってくる、あるいはオリジナルがぼやけてくるというのに似ています。
ただ、悪いことばかりではありません。人の伝達は、単純な機械のコピーとは異なるからです。
いわばオリジナルな複製と言ってもいいもので、結局、これも人のそれぞれの個性によって、伝えられたものに自分の表現が入れられて、同じではあっても、別のものとして伝えられていくのです。
そこで、個性的な表現によって新たな創造がなされ、世界は多彩になっていきます。その多彩さがまた、本質へ引き寄せられる人たちへの機会を増やしていくことにもなります。
ですから、きちんと伝わっているかどうか、伝えられているかどうかとナーバスになったり、嘆いたりせず、その人が自分流の表現で、伝えられたものにオリジナルな複合と発展が遂げられていくことに期待したほうがよいわけです。
しかしながら、たとえ抽象的ではあっても、本質が伝えられているかどうかという点は、伝達において重要でしょう。
枝葉や周辺のことはその人独特の表現ではあっても、本質そのものはきちんと伝えられているかはチェックされるべき点です。
しかしそれは、ただ単語や並べられた言葉のテスト(チェック)では本当はわからず、自己の体験や表現によって語られたり、文章化されたりして出てくる魂的とも言える表現から伝わってくるもので、確かめられるのです。
普遍的で本質的なものは、実は個性的で具体的なものの中に流れています。
伝えられた言葉や文章をまったく同じにコピーして語ったとしても、そこに本質的なコアなオリジナルの理解がなければ、それは真の伝達とは言えないでしょう。
伝達は自分流になるのが当たり前と思いつつも、その自分流の中に、本質的で普遍的なものがあるかどうか、ここが大切なところとなります。
その点では、あることを本当に伝達していくという意味では、教えを聴いた人が、得手勝手に次にそのままコピー状に伝えたり、教えたりしていいわけでもないのです。
このことは、マルセイユタロットでは「法皇」と「恋人」カードの並びや、「正義」と「隠者」の並びなどに見ることができます。
コメントを残す