自己創造の世界

先日、タロットの受講生・修了者用に発行しているメルマガを出したところです。

今回は「運命」についてタロット的に考察しています。

そこで語ったひとつのは、「自己創造の世界」という概念です。

今日のブログでは、メルマガの記事と同じようには行きませんが、この「自己創造の世界」について、少しふれてみたいと思います。

いきなり結論から言いますと、私たち一人一人は、結局、自分の作り(創り)出した世界で遊んでいる存在ではないかということです。

ということは、スピリチュアルな世界や潜在意識関係でもよく言われるように、自分の信じた通りの世界・人生を自分が体験するということになります。

ただし、自分が思ったり、信じていたりすることは、表面意識・自覚しているものだけとは限らず、そのほとんどは、別のところ(潜在意識やほかの記憶庫)にあるとも考えられます。

ここがやっかいなところで、従って、自分の(自覚している)願望がそのまま叶うわけではないのです。

ですが、今回は、この、自覚したものと無自覚なものとのデータの違いと実現度を述べることが趣旨ではないので、省きます。

私の言いたいのは、先述したように「自己創造の世界」ということで、要するに、意識的であれ、無意識的であれ、自分が作り出した世界で、私たちは生きるようになるという「仕組み」についてなのです。

例えば、「運」(幸運・不運)というものががあると思う人は、その通りの世界観を自分が投影した「現実」を経験していくことになります。

具体的には例示した「運」を信じる人の場合で説明します。

そういう人は、その「運」「不運」というものについて明確にしたいため、まず現象観察から入り、そして占いやほかの分野などでも、「運」ということについて書かれたり、解説されたりしているものを学び、いよいよはっきりと「運」の存在、その善し悪し、働き方、運用の方法、幸運のつかみ方などを体験し、実践していくことになっていきます。

最後は、それでよい人生をどれだけ送れたか、あるいは人にも教えられたか(とらえ方によっては、救えたかにもなるかもしれません)を、満足度によって計ることになると思います。

これは実はとても面白いことなのですが、今の説明のままではわかりづらいので、ゲームで例えます。そうすると、とてもわかりやすいからです。

さて、自分で創造する世界とは、ゲームで言えば、自分が作り、設定したゲームのスイッチをオンにさせて楽しむことのわけですが、「自己創造」ゲームにおいては、このスイッチを押す時は、自分がゲーム設定をしたことを一度完全に忘却します。

忘れているので、現れたゲームの世界を、現実の体験として受け止めます。

しかもゲームを楽しむルールはわかったとしても、その真意やゲームの詳細な攻略方法などはわからないままです。

人それぞれのゲームでは、「こういうことをすれば成功と言えるんだ」とか、「これがスピリチュアル的にすばらしい生き方なんだ」とか、「運をつかんで幸運な人生を送るんだ」とか、そういう願望や思いが自己の世界設定を生み出し、その世界観が通じる現実を味わう(体験させられる)ということになります。

またこのゲームは、自分の考えや価値観、目的が変われば、設定もその都度変更されていきます。

まさに自分が身につけた(信じた)ものの通りに、ゲーム世界観と設定も改編されていくわけです。

最終的には、ゲーム終了時、実際には自分の寿命が尽きるか、亡くなるということになってきますが、自分の創造したゲーム世界で、いかに高得点を自分がたたき出したかうまく遊べたかを振り返り、満足してあの世に旅立つか、悔いを残して亡くなるかみたいになります。

つまり、これ(自分が思うゲームの達成感や遊技感)が幸せや不幸せ、人生での達成感や充実感、逆の不満足感や悔恨度になっていくわけです。

冷静に考えると滑稽なことです。

もともとは自分が作り、また途中においても自らが改編しているゲームに、わざと設定を忘れて、ほかならぬ自分が作ったそのゲームを極めようと邁進するわけですから。

これをばからしいと思うか、いやいや、これはこれでとてもすばらしいことだと思うかによって、ゲームの意味(つまりその人が思う現実の意味)も変わってくると思います。

言っておきますが、このようなゲームを作って、設定を忘却してまでリアリティを感じるという超高度な楽しみ方は、なかなか味わえるものではなく、おそらく肉体をもって生まれた人生だけの体験だと言えるでしょう。

それは一時(いっとき)、与えられた特殊な能力と設定なのです。

これを起動せず(と言っても強制的に起動させられますが)、意図的に避けよう(悟りなど過度に目指すことにつながるかもしれませんし、逃避的・自虐的人生を送ることであるかもしれません)としたりしても、もったいない面があるのではないかと思います。

しかしまた、一方では、この仕組みのまま、ゲームに熱中し、自分で自分をはめてしまう(縛ってしまう)ことに強い力が働きすぎると、どこかドラッグ中毒みたいな違和感も覚えるのではないかと危惧します。

もっと言えば、こういった仕組みを理解している一部の人たちがいて、この一人一人のゲーム世界に介入できるシステムも働いているのではないかと想像してしまいます。(まあ、それも自己創造の世界といえばそうかもしれませんが)

自己創造の世界のゲームで充実したと思える人生を送るのもいいのでしょうが、ゲームをやらないと、あるいはゲームをやりながら、ゲーム自体にのめり込まない生き方もある気がします。

結局、ゲームの得点自体を競うものではなく、競わせるように見せかけて、ドキドキワクワクを体験するかのようなそのプロセスと演出に、リアリティさや迫真さを覚えることが目的でもあると考えられるからです。

このあたりは難しいところではありますが、マルセイユタロットの教義や象徴を見ていくと、ゲームの謎について、描かれているように感じるのです。

いずれにしても、大事なことは、一人一人、自分が作る世界で、究極的な意味においては「楽しんでいる」わけですから、その選択に他人(自分)がとやかく言う必要もないのです。

いや、「とやかく、必要以上に思い悩む必要はない」と言ったほうがいいでしょう。

人間関係性においては、何かを人に言ったり、言われたりすることは当然あるからで、それはコントロールしにくいものです。(特に他人から言われるものは)

けれども、自分が受け取る方、言われたことをどうとらえるか、思うかは、ある程度コントロール可能です。

ですから、「とやかく悩む必要はない」と心の対処のほうを述べているわけです。

また、「自分が生み出す世界」での、「あなた自身が他人に対してとやかく働きかける設定」(笑)というのもあるかもしれませんので、その意味では、人に関わり、援助したり、反対に助けられたりすることが積極的にあってもよい思っています。

それから、それぞれの創造世界は微妙に重なりあっているとも言え、その点から見ると、きっと人の数だけ何らかの影響を及ぼし合っていると言えるかもしれず、自分の思い・行動が、全く一人の世界で閉鎖し、完結しているものではないと思います。

自分が何をゲームで今設定しているのかは、やはり外側の起こったことで見ていくことがいいでしょう。

その時はゲームに取り込まれている自分に客観性をもたらすことが重要ですから、何かツールを使ったり、シンクロニシティを見たり、反対に異質感際だつものをピックアップしたりするとよいでしょう。

なお、客観性をもたらせるのには、「象徴解釈」ということも大きな手助けとなります。

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