知ることの意味、再生と創造
人には知りたい、物事を明らかにしたいという欲求があります。
欲求なので、他の「欲求」と同様、暴走すると問題になりますが、本来は、やはり「人」であるところの特徴であって、そのために成長や発展も見込まれるものだと思います。
そもそも先述したように、ある意味、「欲求」は「人」たる証左のようなものであり、悪いものでもいいものでもなく、バランスの問題によってよくも悪くも変化するものだと考えられます。
知りたい欲求、知的欲求も同じで、情報や知識を過剰に入れ過ぎ、それに振り回されていては問題となりますが(現代はそれが顕著です)、その欲求があるからこそ、人類も進展していくものと言えます。
人に知りたいという欲求があるのは(知りたい欲求にかかわらずですが)、肉体を持って生まれ、自分が完全ではないと思いこまされている世界を、リアリティあるもの(つまり現実)と感じているから(言い方を換えれば「神」から切り離された状態になっている)にほかならないと思うのですが、これはマルセイユタロットに流れる「グノーシス」思想と関係する深い話となりますので、今回はそれにはふれません。
さて、知ることに対して、時に人によっては、「知らない方がいい」「下手に知るとまずい」「子供のような純粋な状態が望ましい」と言われることもあります。
もちろんこれに当てはまるケースもあるでしょうし、自分の段階やレベルを超えて知識を得てしまうと、その意味がわからず、うまく活用できないこともあります。
また、真実(この定義は難しいので、ここではまだ知らなかった事柄・事実という意味で使います)を知ったために、ショックを受けたり、裏切られたという思いをもったりするようなこともあります。
何か別のことが隠されいるのを薄々感じながらも、それに直面することが怖くて、あえて知らないフリをしている場合もあるでしょう。
そんな時は、例えばマルセイユタロットならば、「正義」のカードが出るかもしれません。
いずれにしても、知りたい欲求と、反面、知ってしまうことへの恐れ、知ることがタイミングとして適当ではない、知ったために純粋さが失われた・・・という「知ることにおいての葛藤」が誰でもあります。
ここで私が、タロットから見て思うのは、それでもたいていは知ったほうがいいということです。
前述したように、いろいろなケースがあって、必ずしも状況によって「知る」ことの選択がベストとは言いませんが、究極的な意味と言いますか、最終的には知ったほうがいいのでないかと述べています。
「知りたい、でも知りたくない」という状態は「葛藤」なので、それを乗り越えるために「知る」ことで葛藤の門をくぐり、新たな境地(統合・新しい創造の世界)へと進むことができるからです。
もっと別の言い方で例えましょう。
新しい情報なり知識なりが入って、一時的に混乱はしても、人間は何とかそれを調和させようと、融合作用を開始します。
すると旧バージョンの自分がバージョンアップされて、新しい情報も自分の中で収めたうえでの判断ができるようになります。
その新しい情報や知識が、自分にとってあまり有用ではない場合、切り捨てる(眠らせておく)ことも人は可能です。
何も付け加えることだけが創造ではなく、破壊し、捨てることも創造の一部です。
さらには、ヤスリやサンドペーパーで磨かれるがごとく、新しい知識などが、自分の今までのものを磨き、その新しいもの自体は使い終わったサンドペーパーのようになったとしても、残った従来のものは研磨されて、まさにブラッシュアップされた知識・情報として非常に効果的なものになります。
知らなければ良かった・・・と後悔することも人にはありますが、知るシーンや状況に遭遇することは、総合的・全体的に見れば、きっと意味があることだと思います。
それは自分の表面意識では知らなかった(自覚していない・認識していない)ことでしょうが、実はすでにあなたが奥底で、「知らなければならなかった事柄・知識・情報」「直感的に何かあると思っていたけれど、恐れで避けていたもの」として感じていたことだったかもしれないのです。
いわば、自分自身の「知りたい欲求」が自らを動かし、そういう「知る状況」に出会わせたと考えられます。
ですから、知ってショックなことではあっても、それは別の自分、奥底の自分、顕在意識ではない意識の部分が求めていたことかもしれませんので、どこかで満足している自分がいて、その新(真)情報によるカオスから、火の鳥のように新しいもの(解釈・選択・生き方など)が生み出されてくるはずなのです。
「真実はこうなのかもしれない」「もしかしたらああいうことかもしれない」「でも知るのは怖い」「まだ知る段階ではない」・・・という不安と葛藤の状態から、偶然であれ、意図的であれ、結局「知ること」によって、対立からの統合を果たし、新しい自分(の考え方)を創造していくのです。
それは象徴的に言えば、死と再生のプロセスであり、古いものからの囚われを解放し、自分らに革命を起こすことにつながるのです。
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