タロットの不思議体験と自己成長
マルセイユタロットを学び、使っていくと、いろいろと面白いことが起こってきます。
それは不思議とも言えるものですが、それを検証したり、考察したりせず、ただ「不思議」だと無分別に受け入れることは、私自身はしていません。
不思議だ、神秘だ、ワンダーだと驚嘆する心はあっていいと思いますし、それが人の感応力のすばらしさでもあり、また大いなるものへの敬意や感謝にもつながります。
しかし、不思議なことにただ驚いているばかりでは、進歩もありません。その気持ちが洗脳や、コントロールに利用されることもあります。
不思議は、これまた不思議なことを言いますが(笑)、不思議だからこそ理解と智慧が獲得されるような仕組みがあるのです。
「驚き」「不思議」「謎」は理解や探究とセットでもあるのです。
さて、自分使いのタロット(他人にリーディングするなど以外の、自分でタロットを使うもの)で、(起こる)不思議なことを幾つか述べてみましょう。
まず、自分で、問題や状況についてタロットを展開した時、出たカードと展開が、あまりにもぴったりで衝撃を受けることがあります。
私は今はこの現象(の理由)について、驚くべき気づきがあり、それを説明することができますが、ここではふれません。
説明しても、受けいれられる人が少ないと思うからです。ちゃんとタロットを学んで、段階を追って開示しないと無理でしょう。
それはそうと、とにかく、タロットと自分とのつながりが、偶然引いた中でもある(生じる)ことに、驚きや不思議さを感じます。
偶然の中の必然、それこそ、シンクロニシティをここで体験するわけです。
次に、タロットをさらに学んで使っていくようになると、人によってですが、ふいにタロットが映像として出て来たり、まるで人格をもって語りかけてくるかのように感じたりすることがあります。
「タロットの聖霊」という概念を信じるか信じないかによって、このことの説明は変わってくるのですが、まあ、ともかくこれも不思議な体験です。
そして、タロットの象徴について理解が進むと、今度は、カードのある並び(順番)や、学ぶべき事柄として、まさにタロットカードの示す象徴内容そのもののが、現実に起こってくるようになります。
もちろん逆から考えることもでき、タロットが理解できてきたからこそ、自分に起こっていることがその象徴として把握できてくるとも言えます。
とはいえ、その考え方よりも、むしろ「タロットにより経験させられている」としたほうが納得できるかのような感覚と言ったほうがしっくりきます。
これが「不思議」と感じる部分になってきます。
こうして、最初にタロットに接し、その意味を理解した時とは別の、さらに次元やレベルの異なるタロットの示唆するところの多重性の意味を、知性と感情、さらにその他の知覚でもって、体験的に知ることになります。
これが連鎖反応的、螺旋状的に続いていくのです。
もちろん一枚だけの象意ではなく、カードの組合せや全体性による体験と理解もあります。
それはすなわち、自己の成長や向上とつながっているのです。
言わば、自分にある内的宇宙と、外に存在していると錯覚している外的宇宙を、マルセイユタロットをモデルや核として、統合していくような作業と述べてもいいかもしれません。
このプロセスは、他人と比べるものではありません。
あくまで自分中心に、自分の成長レベルで体験していくものです。
ですから、自分が知ったカードの象徴や意味も、他人と共有できる部分もあるとはいえ、やはり自分だけにしか通用しないものもあるわけです。
言葉尻だけをとらえると、いかにも一般的な意味のように思えても、その真意は、その人が自分の知識と体験から導き出し語られる内容のもので、他人にはわからないものなのです。
例えて言えば、一枚のカードに象徴される自分の中にある何階層にも及ぶ建物(意味・智慧・理解)があり、その1階と10階とでは、まったく言葉としては違っていても、建物としては共通しており、しかしながら、この建物はあくまでこの人の「マンション(メゾン・メーソン)」であるというところで、他人には理解できないということなのです。
と言っても、建物自体は似ているというより、実は共通基盤・設計・施工は同じ建物と建設会社によるものなので、別の人の建物同士でも理解しあうことや、共通点はあるとも言えます。
矛盾しているようですが、これもタロット的には言えることなのです。
違っているけれど同じ、また同じだけれど違っている、これが自分と人との関係でも言えますし、自分一人だけの基準においても適用されるのが、タロットで物事を見る時の基本ルールみたいなものです。
しかもそれこそが、宇宙を見る時のルール(仕組み)と同じであるとも考えられます。
ですから、タロットは自分使い(自分自身と比べる)だけのように見えて、人と比べることも可能で、他人とカードについて比較し合い、気づきと意味を述べ合うことでも、自己成長が促進されるようになっているのです。
この時の「他人との比較」というのは、差を意識しつつも、差に引きずられるのではなく、あくまで自分の理解と成長のために、人の考え・気づきと比べるというものです。
一言でいうと競争ではなく、他人と融合や統合するための使い方です。(しかしながら、他人と違う自分の個性も理解する方向でもあります)
ですから差だけではなく、むしろ共通部分も発見することが鍵となってきます。
このように、マルセイユタロットを学び、使っていくというのは、不思議体験とそれへの理解による螺旋的な自己の進化(深化)・拡大を意味するのです。
コメントを残す