完全性と非完全性 現実と理想

マルセイユタロットが表す大きな教義のひとつに、「人の完全性」というものがあげられます。

完全性とは完璧というのとは少しニュアンスが違うのですが、神や仏、宇宙などで象徴される全体性を示唆し、言ってみれば、「それそのもので何も不足するものはない」と表現できるものです。

スピリチュアルのことを学んだり、関心をもって探究したりすれば、必ずと言っていいほど行き当たる言葉であり、境地です。

もともと、私たちは何も過不足なく、存在自体完全なのだという認識ですね。これはまたグノーシス(自らの神性を認識する)に通じるものでもあります。

この観点は私も賛同しますし、ここを前提としなければ、マルセイユタロットにおいても、中途半端なものになると思っています。

しかしながら、現実的な側面で見ていくと、大きな誤解もあるような気がします。

精神やイメージ、心の中では「完全性」はいつでも思うことができます。

言い換えれば、精神世界・理想においては、確かに全員それぞれが完全であると述べられます。

厳密に言えば、「完全性を思い浮かべることができる」(完全性をイデアする、完全性のアイデアを持つ)ということです。

けれども、実体・現実の世界では、自分が神のように完全だと自覚することは難しいものです。

真面目に考えれば、自分はおろか、誰一人完全な人間なんていないと見るのが常識的で、当たり前の感覚です。

ということは、人の完全性、逆から言えば、完全性を持つ人というのは単なる幻想で、現実にはありえないということになります。

こうしたことを理由に、スピリチュアルというものは浮ついたもので、真実味もないと、特にリアリスト的な人からはみなされるわけです。

確かにそれはその通りでしょう。ただし、あくまで現実世界しか実体として見ない(存在として意識しない)場合は、です。

ここで大切なのは、両世界を行き来するために「橋」を架けることなのです。別の言い方をすれば、両方(の世界の認識)あって完全と見る考え方の受け入れとなります。

これ(架け橋する力)はマルセイユタロットでいえば、「愚者」そのものの力にも相当し、「法皇」はそれを伝えています。

現実で私たちが非完全(不完全)なのは、別の世界、つまりイメージや理想、現実を超えたところの世界では完全であることを強く認識させるためでもあります。

現実(通常の世界、見て触れる実体の世界)と理想(イメージや心・精神、通常認識しにくい世界)では表現方法が異なるのです。

そもそも端的にいえば、具体(個別)とイメージ(全体)という表現の違いが、ふたつの世界ではあります。

古代西洋のエネルギーのとらえ方の概念、四大元素を用いれば、主に「風」と「土(地)」の違いのようなものです。

イメージや裏の意識の世界では、いくらでも想像が可能なので、すべてがつながっていることも意識することができます。実際にそうした世界では、すべてがつながっていると考えてよいでしょう。

一方、現実では、一人一人個性を持ち、皆が異なる状態で存在します。従ってバラバラなため、過不足を感じるのが普通であり、一人の人間で完全だという思いは、客観的にも認識できにくいものです。

運動が得意であっても、ビジネスができるとは限りませんし、勉強ができても恋愛ではうまくいかないという人もいます。また生まれつき大きなハンディを背負っている人もいれば、知能も身体も恵まれている人もいます。

そう、現実はまさに「違い」の世界であり、一見、そのままでは差別性・非(不)完全性を強く認識させる世界になります。

ところが視点を変えると、実は完全性も強烈に現実に現れます。それは、全員がひとつひとつのピースのように、ある大きなものの一部であるという観点をもった時です。

そうすれば、この現実世界での「完全(の認識)」とは、個人での非完全性の認識(自分の過不足を認めること)と、そこから来る助け合いや相互の受容それぞれの能力・特技・個性の活用というものだと気づいてきます。

イメージや精神の世界では、すぐに完全になれる(思える)のに対し、現実では逆に完全を「個」で認識するのは困難な世界になっています。

その代わり、まさに現実(実が現れると書きます)の特徴の通り、実体として個と個が助け合ったり、得意なものを交換しあったりすることで、全体としての完全を感じていく仕組みになっているのです。

一方のイメージ世界では、すぐに完全を想像することはできても、実感としては難しく、また宇宙的一体感は瞑想や理想のイメージで得られたとしても、自分自身が個としても生きているので、よほど悟った人以外、またすぐに現実との矛盾(完全やひとつは感じても、実際はずっとそうはなれない、それを活かせない自分との葛藤や悩みが出る)に苛まされることになります。

たとえ自分が「完全性」を、イメージ・瞑想・スピリチュアルテクニックなどで感じられたとしても、それを他の人にも同じように感じられるようにすることは難しく、勢い、自分のこと(自分の感じたこと、自分が言うこと)を信じられない人に対して幻滅を感じたり、進化の遅れた人のように見下したりしてしまう傾向が出ます。

そこまで極端ではなくても、同じ感覚を共有できる人だけで固まり、セクト化・カルト化する場合もあります。

それを防ぐためにも、現実での非完全性を思いつつ、全体としての完全性を認識するようにし(個としての、現実としての不完全を認めたうえで、全員で完全と見る)、違いの対立ではなく、違いを活かし合うという方向性を持つことが重要になってきます。

逆に言えば、現実では違っているのが当たり前で、いくら精神やイメージで「皆はひとつ」とか、「宇宙は完全だから何もしなくてよい」とか思っていても、実体(現実)では一人一人異なっていること、非(不)完全性を強く思う仕組みになっているので、安易な「完全性」の主張は、現実での矛盾や苦しみを助長することになると理解しておく必要があります。

しかしながら、イメージで感じた全や一という感覚は、現実世界では、完全ではない(と感じる)一人一人の実社会での協力的関係(の構築)によって近づくことができるのです。

ということは、やはり、イメージや理念としても「完全性」を知っておく、学んでおくことは重要です。理想がないとよい現実を作ることができず、現実は混沌とし、さらにひどいものになるからです。

時には、一時的でも宇宙的・全体的一体感を味わっておくのもよいでしょう。

その意味では、害のない程度のトリップ体験ができる方法はありだとは思います。(扱う知識はいるでしょうが)

こうして、現実と非現実(イメージとか理想の世界)とは、お互い真逆のような状態でありながら相互にリンクし、実は同じことを対称的な表現で経験させるようになっているのです。

ですからふたつを意識したり、認識したりするほうが、真理に近づくのも早いと言えます。ふたつがあるからひとつが見えてくるのです。

しかしながら、表現がまったく反対になることを覚えておかないと、どちらかの世界に傾き、迷走することになります。

元に戻りますが、結局は私たちは宇宙そのものであり、やはりどちら(の世界)から見ても、完全なのだと私は考えています。(ただし、意識や認識のレベルによって、その完全性自体のレベルも変わると思っています)

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