常識ある人の存在で成り立つ「愚者」

タロットカードに、「愚者」というカードがあります。

このカードには数がなく、ただ名前だけがあります。ということは、特殊なカードであることがわかります。

数がないということは、どのカードにもなれる、トランプゲームでいえはジョーカーのような役割になることもあれば、反対に、だからこそ、どのカードとも違う異質性や自由性があるとも言えます。

ただ、私が思うのは、タロットの世界は78枚全体でひとつの世界・ワールドを象徴しており、それはすなわち、私たちのこの世界や宇宙も表しているのだと思っています。

ですから、78枚全体をもってひとつの世界(宇宙)と見た場合、「愚者」単独で存在することはできず、「愚者」も全体の一部であり、また、一つによって全体を表すカードだと考えることができます。

すると、面白いことが見えてきます。

「愚者」と書けば、その名の通り、愚か者を意味します。

愚か者、悪い言い方をすれば、馬鹿であり、アホです。(笑) よい言い方では、常識とは違う考えや行動をする人間で、冒険者や自由人とみなすことが可能です。

このような人に、私たちはあこがれたり、嫌悪したりします。

その理由は、通常、私たちは常識ある固定的ルールある世界(社会)に生きざるを得ず、そのため、自分たちと真逆の存在ともいえる「愚者」に、共感と反感、嫉妬とあこがれのような複雑な感情を抱くようになるからです。

つまり、私たちの中には、いくら常識的・固定的生き方をしていても、自由・解放・冒険・無軌道的・非常識的とも形容される愚者的性質に感応する(良きにつけ・悪しきにつけ)心があるということになります。

マルセイユタロットでは、「愚者」を含む22枚の大アルカナに、人の元型とも言えるパターンやモデル的人格を認めることが可能です。

従って、「愚者」が自分の中にいるというのもうなずけますし、逆に、「愚者」を否定したい気持ちになる自分も存在するわけです。

さて、話を元に戻しますが、「愚者」は78枚の宇宙・世界の一員でもあると言いました。

ということは、平たく言えば、ほかのカードあっての「愚者」なのです。

「愚者」が「愚者」であるためには、賢者や常識人、特定のルールに従う真面目な人たちがいてこそ成り立つわけです。

全員が「愚者」であれば、「愚者」という人(性格・個性)は存在できません。

「愚者」はその自由性、非局所性、移動性を表すために、一般的に旅姿で描かれています。

どこなりとも自由に放浪する人物であり、それに不安や恐れもなく、むしろそういった行き当たりばったりの人生を心から楽しむことのできる者です。

しかし、マルセイユタロットで見た場合、「愚者」が進んでいく(旅をする)とするのなら、それは、ほかのカードたちのところとなります。

もしほかのカードに入らなければ(移動しなければ)、「愚者」はほかのカードに変わったり、ほかのカードに象徴される経験をしたりすることができません。

また「愚者」以外のカードから認識されることもなくなります。

「愚者」はほかのフィールドに旅をしてこそ、「愚者」として実体化するとも言えます。

さて、ここで象徴世界から現実世界へ次元を下降します。

すると、世の中には実際に愚者的な行動や考えをしている人物がいることがわかります。

一方で、多くの人が、たまに愚者的になったとしても、「愚者」とは異なる常識人として、ほぼずっとふるまっている(生活している)ことが理解できます。

さきほど、タロットで象徴的に例えた場合、「愚者」はほかのカードが存在してこそ、「愚者」として成り立つと言いました。

実は現実でもそうだと言いたいわけです。

一人の変わり者が、変わり者として存在できるのは、多くの常識的で普通な人の暮らし・生活・人生があってこそなのです。

10人普通の人がいれば、一人くらい、何もせずブラブラしていても、皆からの援助で食べていくことはできるでしょう。

その代わり、「愚者」たる人物は、皆が普通ではできないことを経験してきて、楽しいお話や斬新な考えを伝えたり、ピエロ的になることで人を楽しませたりすることが可能です。

昔、日本でもお伊勢参りなどの参詣旅行において、村や村落・町内の講と呼ばれる組織を代表して、やっと一人か二人かの人物が行くことができていました。

この時、弥次さん喜多さんではないですが、代表の旅人は、「愚者」となるのです。そうして「愚者」となって異質な経験をして村に帰り、それを普通の人々と(精神的に)共有します。

こうして閉塞的な村や組織に新たな息吹を入れていき、全体として活力を取り戻させ、成長発展も見込まれる(見聞が技術や知識も拡大させる)ように変化してくるわけです。

ハレとケの循環サイクルから考察すると、「愚者」となった人物は、言わば神様の化身と言ってもよいでしょう。

大切なのは、皆が「愚者」になることではなく、全体として、「愚者」とそうではない人とのバランスで生じるのだということです。

「愚者」がその日暮らしの自由な生活ができているからと言って、あなたや全員が、いきなり、行き当たりばったりで暮らしていけるわけではありません。

「愚者」の行動をそのまま真似するのではなく、「愚者」が示す、自由の表現、精神・エネルギーを、常識の世界に住む者たちが受け取り、行き詰まった社会に改革のくさびを打ち込むことが重要なのです。

もちろん、役割として、自分自身が「愚者」となるという選択もありですが、全員が行動や現実として愚者化できないのは言及した通りです。

「愚者」の心は皆が持ちますが、社会の中で、その人の個性に応じた「演じる」役割があると思えばよいでしょう。

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