うつ病予防や要因の、ひとつの考え
前回はうつ病時代の話を書くつもりでしたが、つい公務員(時代)のことについて書いてしまいました。
まあ、私にとってはその時代がうつ病になった時でもあるので、仕方ないと言えば仕方ないのですが。
さて、人がうつ病になるのには、様々な原因があると思います。
どういった観点で分析するかによって、人それぞれとなるでしょう。
ここでは、「自分殺し」の視点で見てみたいと思います。
自分殺しとは、また物騒な表現ですが、うつ病のひとつの要因としては、これがあげられると思っています。
もっと柔らかい表現で言えば、「自分への偽り」「自己本質と表現の抑圧」と言ってもよいでしょう。
自分が本当にしたいこと、自分の本当の心・思いと、現実で表せる行動・環境との不一致が続くと、どうしてもそこに葛藤が生まれます。
葛藤は歪みとなってねじれ固まり、ひとつの重力のような重さを持ちます。
逆に言えば、心と表現が一致・調和していれば、中立的になり、重さを感じないわけです。
この「重さ」「重力」は、次第に潜在的にも溜まっていき、重さの度合いを強め、ついには支えきれなくなります。
ひどくなると、重さで押しつぶされ、まさに自分(の純粋な部分)が象徴的には死ぬことになります。
しかし、人には生存本能がありますので、死なないように、防衛や反発が働きます。
それがうつ症状となって現れるものだと、ひとつには想像できます。
つまり、うつ症状は、表面的には沈み込むような停止エネルギーに見えますが、その裏側には抵抗や防衛のためのエネルギーが渦巻いている状態と言えます。
これが間違って現れた場合、防衛・逃避行動の過剰として、自殺などに向かう場合もあります。
現実(実際)的な意味で「自分を殺す」ということは、そこに行動が伴いますので、実はエネルギーがいることなのです。
そのエネルギーは、死への反発として、自己防衛で生み出されたものの可能性であることが、不幸です。
いろいろと説明していますが、要するに、自分の気持ちを殺して、あるいは抑圧して、我慢を続けることでうつ病が発生してしまう仕組みがあるということです。
ということは、ふたつの予防策や、治療に関わる考えができます。
ひとつは、単純ですが、我慢をしなくてもよい環境に身を置き換えること。
そしてもうひとつは、我慢や抑圧という感覚にならないよう、自分の思考と感情を変えることです。
前者は実際には難しいかもしれません。
そう簡単に環境や仕事場を辞めたり、変わったりできないからこそ、うつ病になる、困っているとも言えるからです。
これは個人の問題だけではなく、社会的・地球(世界)的(働き方・生き方の構造的)問題まで根を張っているように感じることもあります。
しかし、象徴的なことではなく、本当の意味で生死の境目まで追い込まれてきたら、それは生命を重視するべきです。
会社に行くことで生きるか死ぬかレベルで悩むのであれば、まったくもって、そこは続けるにふさわしいところとは言えません。
死ぬために会社に行くのか、死ぬためにあなたは生きているのかということになるからです。
一方、軽度の抑圧になっていて、ここに居るのは苦しい、自分の本当の表現ができていないという人は、もちろん辞めたり、環境を変えたりしてもいいのですが、先述したように、自分自身を変えることで、環境は変わらなくても大丈夫になることがあります。
これは先に述べた後者の方法です。
自分という内側、認識装置をバージョンアップさせたり、性能を変化させたりすることで、環境適応能力を上げるという方法で、スピリチュアル的に言えば、内が変われば世界も変わるというやり方です。
自分を殺したり、抑圧させたりしてしまうのは、あるルールを厳守したりする傾向や、物事を受容する限界値が低かったりする場合もあるわけです。
言わば、自分を縛っている決まり事・考え方というのが強固にあるから問題なのです。
縛りというのは、よく言われるような、「・・しなければならない」という部分です。
人によく見てもらわくてはいけない、失敗してはいけない、親や配偶者、子供達を心配させてはいけない、期待に応えなくてならない、サラリーマンとして勤め上げなくてならない、いい加減な働き方をしてはならない、上司より先に帰ってはならない・・・というようなブロック的ものから、誰それに怒られるから、周囲から変に思われるから、あれをすると孤立してしまうのではないか・・いじめられるのではないかと・・・という不安・恐れから来るものなど、いろいろとあります。
もちろん、これらが悪いわけではなく、常識の世界で社会人として普通に生きるために、ひとつのモデルであり、ルールであり、社会秩序や自分を守るためのものでもあります。
ただ、それがあまりにも自分に課すことが強すぎて、自分が死んでしまうようなことになっては、意味がありません。
本来は自分と社会が調和・適応するためにルールを守っていることなのに、その主体である自分自身が殺されては本末転倒なのです。
ということで、平たく言えば、もっと大らかに、許容量を広く持てるようになるために、自己改造を行います。
それには、少しのわがままから入る(自分のしたいことをする)ことで、少しずつ改造計画(笑)が進みます。
例えば、ほとんど有給休暇も取らなかった状態から、今年は旅行や遊びのために取ってみる、残業ばかりしていたのなら、定時で帰る勇気の日を週の一日でも実行してみるなどから始めます。
会社や家族、友人・知人のため、ましては地球や宇宙のためでもなく(笑)、ただ純粋に自分のためだけに過ごす時間を持つことです。
あるいは、時には心理的な解放形セミナーに行ったり、瞑想や座禅などして、自分を見つめる体験をしたりすることもよいでしょう。
これとは違うやり方ですが、経済的収入を今の仕事以外で得られることを考え、その方法を学んでみたり、実行したりします。
今はネット環境があるので、その気になれば、すこしの額からなら、個人が稼ぐことは、やり方次第で比較的自由にできるでしょう。
要するに、今の仕事や環境だけで生きるというアイデアで固定しないということです。
ほかのアイデア・発想をもって、それが可能だとリアリティが持てるよう学んだり、経験したりすることです。
人は自分が思っているほど、小さい存在ではありません。セルフイメージが拡大できれば、その生き方の可能性と幅が増えるのです。
言い換えれば、常識人のふりをして、非常識を流入させろということになるでしょう。
ただうつ病になるようなタイプの人は、非常識で生きることは、逆に自分を苦しめる場合もあります。
ここが、もともと自由人的な人には、なかなか理解しづらいところです。
型が破れないから困っているのであり、また破ることは必ずしも快感や、いいこととは限らないのです。
しかし、そういう人の中にも冒険者的精神・自由の心、解放の欲求はあります。タロットで言えば「愚者」の心です。
それを失っては、人は生きる屍や奴隷、または何かのルールの強制者・規則遵守の番人者となります。
ですから、うつ病になるかもしれないタイプの人は、いきなりの自由人になる必要はなく、常識人として生きながら、非常識を理解すると言いますか、「そういうのもアリだよね」と、柔らかな気持ちで受け入れられる土壌に、自分を耕し直すくらいがちょうどいいのです。
無理に解放したり、無謀に思い切って好きなことして生きて行ったりするというのは、別の意味で自分を殺すことになりかねません。
一方で、自分(の心の)改造やキャパシティを上げても、環境が自分を苦しめ、自分を殺して来るのであれば、それはもう、その環境から離れてもいいと思います。
その環境は、あなたの性能を上げるために仕組まれたワールドなので、性能を上げた今(上げる必要性に気がついた今)、その世界(環境)は役割が終わったと言えるからです。
性能を上げるだけではなく、自分の性能が何に合っているのか、自分が本当は何をしたかったのかを気づかせるための環境の役割ということもあります。
あなたがそれに気づいたのなら、環境が変わるか、あなたがその環境から離れてもOKとなるでしょう。(辞める決意ができるようなもの)
とにかく、うつ病予防には、自分の内と外が乖離し過ぎないよう、自分を殺しにかかっていないか、注意してみるとよいでしょう。
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