様々な正義 タロットの「正義」のカード
タロットカードには「正義」という名前のものがあります。
マルセイユタロットのそれは、8の数を持ち、まさしく裁判官のような厳格な面持ちの人物が、剣と天秤を持って座っています。
「正義」というものは実はやっかいです。
まず定義が難しく、古来より論議され、現代でもテーマとしてよく登場します。
マルセイユタロットの「正義」が何を表すのか、諸説あるとは思いますが、個人的には人間レベルの正義ではないと考えています。
従って、個別正義や、それぞれの正義というより、普遍的・宇宙的とも言える正義であり、人間レベルではないのですから、通常の私たちの状態では理解ができないと言えます。
もしかすると死んでからわかるのかもしれません。
しかしながら、逆に、先述した個別の正義、人間それぞれが思う正義というものがイメージでき、いわば、宇宙的にひとつの正義に対し、現実レベルの多数の正義があると考察することができます。
多数の正義、個別の正義は、皆さんもわかると思います。
つまりは、一人一人が正しいと思いこんでいることです。
個人の価値観とも言えますし、個人のルールや決まり事、自分の指針みたいなものになります。
誰でもこれを持っていますし、一人としてまったく同じ「正義」はありません。
たとえ考え方が同じグループに属していても、その信じる程度・解釈は皆、微妙に違うからです。
「正義」はまた社会に対してだけではなく、ある個人に向けてのものもあれば、ある集団や組織、さらには衣食住における正しさの考えという意味では、あらゆるものに自分の「正義」があると考えられます。
さらには、時代によっても、場所によっても、グループや社会によっても「正義」は変わってきますから、一層複雑になります。
そのひとひとつが人によって違ってくるのですから、本当に個人の正義なんて、バラバラだということがわかるでしょう。
ですから、正しさの意味で争うことは、もともと、収まりはつかない(個人レベルでは、全体としてひとつの「正義」はない)ようになっているのです。
個人レベルにおいては、結局、仕方なく、双方の妥協点によっての新しい「正義」・ルールをもって創設し、お互いを納得しているわけです。
しかしながら、ここが非常に重要な点ですが、個別の正義はバラバラだとしても、だからこそ、一定の時間や場所、範疇での正義が設定されてもいるのです。
※現実の世界だからこそ時間と場所があり、その一定の範囲では「ある正義」も意味を持つということです。(逆に言えば、現実以外の精神や量子的世界では、個別や特定の正義はまったく意味をなさないことになります)
「正義」の仮設定みたいなもので、わかりやすいものは、明文化された法律や規則です。
バラバラな正義で皆が暮らしていくのでは、とても面倒だからです。
そこで共通理解の合意形成がなされ、特に法律として決めごとをはっきりさせることで、守るべき正義が、一定の範囲で出てきます。
ただ、明文化されている場合はわかりやすいのですが、難しいのは、明文化されていない集団や範疇の正義みたいなものがあることです。
それでも、一応、それが常識やそこの範疇で守るべきものとして、皆に認識されています。
こうした一定の範囲での正義と、自分個人の正義が著しく異なってくると、その範疇から自分が逃れるか、反発するか、あるいは範疇・集団からはじかれるかになってきます。
人は自由を求めるものですが、こうした範疇の正義、一定の正義というものも形成し、守ることもできるところが、人であることの証しともいえます。
この範疇の正義があるのに、やたらと無責任な自由を求めてそれを理解しなかったり、守らなかったりしたばかりに、自分の居心地を悪く感じてしまう人がいます。
騒いではまずいところに、「自分の正義は、ここでも騒いでもいいのだ」と個人の正義を押し通し、顰蹙を買うような場合です。
範疇の正義を破ること、いわばルールを破ることでの自由を味わうのは、簡単なことです。
しかし本当の自由は、個人の正義、範疇の正義を理解し、そのうえで、多数の正義から導かれる一なる宇宙の正義を浮かび上がらせ、洞察し、理解することで得られるのです
それは現実の正義を拒否したり、不自由だと思ったりせずに、自分の思いと行動のままが、ほかの個別正義や範疇の正義と干渉せず、自由を実感することにあります。
結局、私たち人間は、たくさんの皆さんの正義を観察することで、ひとつの正義に思い至るように遊んでいるのだと思います。
間違っていると攻撃したり、拒否したりするのではなく、全員が一人一人、自分が正しいと思う、まさに個別の正義を持っている、信じていると理解していくことで、マルセイユタロットカードの「正義」の意味もわかってくると考えられるのです。
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