結局、自分のために生きている。

今回はいろいろ考え込んでしまうタイプの人に、単純な、でも実はちょっと面白い話をします。

皆さんも、一回くらいは「自分はなぜ生きているのだろう」「何のために人生があるのだろう」というような、一種の哲学的とも根源的とも言えるテーマで悩んだことはあると思います。

私など、結構、探求好きな性格のため、かなーり昔からこういうことを考えていました。

思い出すと、幼稚園時代、いやもっと幼い頃の時の記憶でも、そういうことを考えていたものがかすかに出てくるくらいです。

例えば幼児の頃、三輪車に乗っていて、外でダンプカーにひかれそうになったことがあるのですが、その瞬間、なぜか大人びた風に「人生の意味」を知ろうとしたことが浮かんだ記憶があるのですね。

ということで、多感な思春期はもとより、大人になった今も、こういうタロットを仕事にしていることもあって、常にこの思いはあるという感じです。

ただ、このような悩みやテーマに答えが出るものではなく、出たとしても、個人的のものであって普遍的なものにはなり得ず、さらには一度出した答えでも、知識や経験が増えると、もっと適切な答えを求めて悩むこともあります。

そうした中で、様々な答え(のレベル)を自分にもたらせてきたのですが、そのひとつに、「結局、誰もが自分のために生きている」というものがありました。

よく、「誰のための人生か?」という問いをされて、自分を生きていないことへの注意やアドバイスがなされることがありますが、この場合は、自分と他人を分けて人生を考えているわけですね。

人に媚びたり、自分を抑圧したりして、本当の自分の望むべき人生を、主体的に歩んでいない特には、こうした問いがテーマとされます。

ですが、改めて、他人のために生きるとはどういうことなのかを考えてみましょう。

それは、自分を犠牲にして人にのために尽くすとか、奴隷のように人のために奉仕するということかもしれません。

これは確かに自分の意志(希望・願望)ではないかもしれません。

しかし、自己犠牲的に人のために生きていたとしても、それはつまるところ、自分の選択であり、そうしたいからしているという部分も完全否定できません。強制ではあっても、選ぶのは自分です。(逃げられない状態の場合も、やはり選択するのは自分です)

やりたくはないけれど、自分が生きるため、自分(や守りたい人)を守るためには仕方ないということではあるでしょうが、その選択は「そうしたい」から「そうしている」ということも言えるのです。

いや、「やっばりしたくないのにさせられていることもある」と思うかもしれませんが、そのように感じられる人でも、自分のために選択している、自分のために行っているという視点からは逃れられないでしょう。

つまり、どんな行動、生き方をとっても、最終的には人のためではなく、自分のためにしているということを言いたいわけです。

他人のためになると思って取る行動も、それによって自分のある部分が満足するからであり、自分をまったく切り離して、人のための行動を取ることはできません。

ということがわかれば、話はシンプルです。

あなたが、「私は誰のために、何のために生きているのか?」「今、こうしているのは自分のためになっていないのではないか?」「人生を無駄に過ごしているのではないか?」と悩み、後悔しても、結局、さきほど述べたように、誰もが自分のために生きている(選んでいる)ので、何をやっても自分のためになっているという話なのです。

誰かのために生きても、それは誰かにのために生きるという選択をした自分を生きているわけですね。

ところで、人生においてのとらえ方は、大きく二種類あると考えられます。

ひとつは、成長や発展のために(これは個人と全体というふたつの観点があります)生きているというもの、そしてもうひとつは経験や遊びとして生きているという考えです。

前者であれば、生きることはすべて学びとなり、人生における選択も、生き方も、それぞれ意味あるものとなり、気づきが多く、学びと成長が促進できる人生のほうがよいかもしれません。

後者の場合、言わば、存在していること、生きていることそのものが目的ですので、選択や生き方の問題はほとんど関係なく、いかにレジャーランドや恐怖の館(笑)のように、経験的に楽しめるかが重要となります。

今回述べている「みんな、結局、自分のために生きている」と取る考えは、後者のものに近くなります。

後者になると、生きたいように生き、好きなように生き、のたれ死のうが、成功しようが、それもビバ!人生体験ということで、マルセイユタロットでいえば愚者的楽観の姿勢です。

人生に疲れたり、いろいろなことでつらくなったら人生体験説を選び、前向きだったり、学習心・向上心が出たりする時は、人生成長説で考えるとよいでしょう。

また逆で考えることもでき、苦しい時・つらい時こそ、人生は学びであり、成長のためにあると考えると意欲が出ますし、向上心あふれる時でも、力を抜いて、人生は体験することに価値あると思えば、好奇心が衰えず、楽しく知識や技術を身につけたり、趣味を楽しんだりできます。

個人的には両方の次元を生きる「複数の自分」がいると思っています。これもマルセイユタロットから得られた考察ですね。

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