承認欲求が刺激される時代で。
インターネットの拡大、SNSなどの発展に伴い、誰でも自分から情報発信することができるようになりました。
それによって様々な情報が提供され、今まであまり知られていなかった(知られにくい)ミクロでニッチな話題も発信・受信ともに容易になり、情報量の飛躍的増大と選択肢の多様さという点では、すばらしいことになっています。
しかしながら、何事も良いことばかりではありません。
マイナス面も同じくらい、いろいろとあることになりますが、特に今回取り上げたいのは、承認欲求の拡大についてです。
承認欲求というのは、ご存知のように、自分(の存在や価値)を認めてもらいたいという、言わば、誰しも持っているような欲求のことです。
自分から簡単に発信できるようになりますと、当然、自分を中心とした情報、もっと言えば、自分自身のことを書いたり、見せたりする傾向になりがちです。
会社や組織で情報を集めているわけではない個人ですから、知っている情報や環境というのも、その個人の範囲に帰属するものになるのも当たり前です。
従って、結局は自分のことを発信する場合が多くなります。
そして、人には困ったことに(笑)、あるいは、だからこそよい面とも言えるのですが、自分の呼びかけに誰か応えて欲しいという欲求が根本的にあるようです。
おそらくある程度の集団や家族で暮らすようになった大昔からの、生きるために備わったパターン(習性)みたいなものなのでしょう。
今のような情報通信機器がない時代、自分単独のアクシデントに際しては、それこそ生命の危険がリアリティをもって感じられるはずで、誰かに救いを求める呼びかけをして反応してもらうことに、ものすごい切望感があったはずなのです。
これが現代人にも受け継がれていると考えられます。
要するに、自分から発信(呼びかけ)すると、誰か別の人に反応(呼応)してもらいたいという習性が働くということです。
反応する人は、自分が知らない人でもいいのですが、知っている人ならば、なお安心できます。
知らない人の場合は、批判とか拒否反応よりも、当然、親和性のある反応、愛を感じる呼応のほうが嬉しいに決まっています。
これをそのままSNSなどに当てはめますと、人の反応パターン、自分がどうされれば嬉しいのかがよくわかります。
つまりは、今の時代、もとからあった人の承認欲求が、無理からでも刺激されることになっているのです。
冷静になれば、依存みたい(発信しては人の反応を求めるという承認欲求のまま)になっている姿も分析できるかもしれません。
ただ、これも悪いことばかりではないと思っています。
マルセイユタロットでは、カードに描かれている絵柄の象徴が、人の共通パターンや自己の様々な像(プラス・マイナス含む)を表すと見ることもができ、結局、その自覚と統合が自他の調和を促すと心理的には考察することができます。
承認欲求は、自分が人から認められたいということでもありますが、裏を返せば、実は人に貢献したいという(自分が他人に役立っている存在でありたい、ゆえに役立ちたいという)思いでもあります。
承認欲求をただの自己満足の段階で終わらせるのではなく、さらに一歩進み、自分は人や社会に役立ちたいと思っているのだと認識して、自分の個性と全体(社会や外の世界)との交流、そして内外の調和を目指していくきっかけにするとよいと思います。
簡単に言えば、自分の個性でもって、何か役に立つことをする(と自分が思える)表現をしましょうということです。
まあ、最初のうちは、他人から見ればうざいものであったり、しょーもないものに見えたりすることもあるかもしれません。
しかし、考えてほしいことがあります。
この世界、結局、内と外、自分と他人、個と社会など、二元の対立と交流(融合・調和)によって成り立っているものと言えますので、人から認められたいと思うのは実は自然なこと(そうした仕組みになっている)なのです。
そして、認められたいという欲求から出る行動によって、そのうちの何かが、外の世界(社会や他人)に貢献できる自分のヒット作として生まれるかもしれないのです。
ヒット作というのは例えであり、何も実際の形ある作品というものに限らず、生き方(行動)や思い、主張、存在そのものなど、形にとらわれないものを含みます。
ただし、欲求の自覚なく、承認欲求を満たすことだけに囚われ、「もっともっと自分を見てほしい、すごいと言ってほしい、愛してほしい」など際限なく欲求を肥大させていく悪循環になるのは問題です。
愛の存在も自己の価値も、すぐには認められない人は少なくありません。
人は傷つきやすく、不安や不満足に陥りやすい存在であると同時に、神性(仏性)を内包し、力強く、完全性を表現できる神聖さも併せ持ちます。
承認欲求から始まって、認められる実感、愛される実感を伴ってから初めて先に進む(人に求めず、自己にあることを認識する)場合もあるのです。
狭い自己の世界で苦境に陥るより、承認されたい欲求をエネルギーとして外に向かわせ、自己の殻を破って外部のエネルギーを流入させ、その反応・統合によって、より広い世界に飛翔することが可能となります。
すべての欲求は、実は向上の叡智・エネルギーとなりうる可能性を持ち、欲求にただ身を任す者は、その欲求の奴隷となるのです。
承認欲求を刺激する今の状況は、それゆえに諸刃の剣でもあり、大きな可能性と大きな落とし穴の両方が開かれていると言えるのかもしれません。
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