タロットの抽象・象徴世界の解放性と束縛性

タロットの世界もそうですが、こういうものは言ってみれば、目に見えない世界や心理、スピリチュアル、さらには神や仏、宇宙、根源、全一などといった究極まで扱います。

それは私たちが普通に意識し、生活する次元(レベル)とは異にした「抽象的世界(次元)」に飛ぶことでもあります。

従って、言い換えれば、普通の「現実」(意識)から離れるということであり、そこにはふたつの「遊離」「移行」といったものが出ます。

ひとつはいい意味での自由や囚われからの解放、または真理への到達や悟りという方向性で、そしてもうひとつは解放の逆になる形で、現実離れ、中二病、悪くすれば妄想、精神異常、病理的な思い込みの世界に閉じこめられるといったものです。

精神や行動の自由の獲得、自分の霊性を高めるものが、一方では反対に、自分を閉じこめたり、自己洗脳、自己肥大、現実や他人への侮蔑のような極端な世界観に封鎖されるようなことになるのです。

探求が過ぎると、それは孤独になり、自分だけが本当の世界を知っているとか、オレはワタシは特別だとか、傲慢な状態にもなることがありますし、それとは真逆の、深く求めるレベルに達成できない自分にいい評価ができず、ますます自己否定・自己卑下になる人もいます。

このように、抽象世界、イメージの世界、現実の意識とは別の世界を知ることは、楽観と悲観、解放と束縛、安全のようでいて危険でもあるという矛盾を抱えています。

よく狭義のスピリチュアルや心理レベルで、最近は自分を愛すること、自己の価値と評価を高めることが大切だと言われていますが、現実と非現実の狭間の段階においては、そのことは確かにとても重要です。

しかし、抽象世界に奥深く分け入ると、巷で言われるような自己評価など吹き飛び、底なしの自己否定感に囚われることもあるのです。それは易々と「あなたは宇宙から愛されている」などといった言葉で肯定できるものではありません。

しかしながら、抽象世界は、底なしの自己否定が反転して、底なし、いや、あえて別表現をしますが、際限のない自己肯定に変化します。

それこそが自我・自分という意識を失う究極の「全」的感覚、感覚のようで感覚でないものといったものでしょう。

それは、「わたくし」がない世界なのですから、自己の否定も肯定もないというものなのです。

それはさておき、前置きが長くなりました。今日言いたいのはこのことでありません。

要するに、抽象的世界(感・観)は、現実を色々な意味で超える力を持っているということです。

それを活かすも殺すも、自分の活用次第なのです。

イメージや抽象、象徴の世界にふれることで、神や宇宙、見えない心や存在というものを、何とか人間の意識レベルで置き換えたり、把握できたりが可能となります。

それは現実という枠組、一般的価値観からあなたを解放するものです。

わかりやすく言えば、今の世の中でいいと認められる人やもの・状況、反対に悪いと思われることやダメな状態、負け組や落ちこぼれ、失敗者と思われてしまう人など、こうしたいい・悪い、幸・不幸、成功・失敗の価値観・基準で判断される世界とは別の価値・見方を得られるのです。

例えば、人生を短期間で見るのと、亡くなる直前から振り返るのとではまた違います。

いろいろとあったけど、最後はいい人生だったと思えたとか、何事もなかったのが実は大きな幸いの連続といえる人生だったとか、終わりからの視点で人生を見ることもできれば、短期的に、「記録への挑戦へ、この一瞬にかけた」とか、「あの人との恋に燃えたひとときの時期がすばらしかった」という「その時」だけを見て、よい人生だったと言えるかもしれないのです。

こういう多角的視点、特殊な視点で自分(の人生)でなければ見えてこないものがあり、今の現実や一般的価値観・幸せ観だけで判断していては、いつまでも苦しいまま、成長しないままの地獄、固定観念に縛られやすくなります。

そう、自分を大きな次元、宇宙とか神のような目線、あるいは地球の視点、動物たちの目線、他人側からの思いに浸るなど、別次元、別意識に飛ばないとならないのです。

それが抽象・象徴の世界によって可能となるのです。

マルセイユタロットは、実際に存在する絵のついたカードという物質性・現実性とともに、その図柄と構成によって、目に見えない世界、抽象的・イメージ的世界、別の次元、究極の状態を想起させられるようになっています。

言わば、現実と非現実のゲートや架け橋でもあるのです。

ここで囚われからの解放を目指すのもよいですし、様々な自己の統合を図っていくことや、真理の探究を進めていくのもよいでしょう。

ただ、先述したように、一方で非現実の世界(観)は、逆に自分を妄想や空虚な世界、生きるエネルギーの喪失、一切合切を同一に見てしまう危険性に閉じこめ、現実逃避の手段としても利用されます。

そうならないよう、架け橋を行きつ戻りつする場合でも、いつも意識的になり、非現実の世界で考える場合でも、どこかに現実性を持たせて飛翔することです。

つまり、行ったきりにならずに、現実に戻る(通常の意識世界に還元する)ことが必要なのです。それも、ただ同じ意識で戻るのではなく、飛翔した世界で見たものを活かす意識です。

そういう意味でも、何か特別な体験をして日常に戻った時、海外旅行を終えて国内の普段の生活に戻った時、研修を受けて通常の業務に戻った状態のような感覚に近いでしょう。

マルセイユタロットの場合、どちらかに傾き過ぎないよう、見事に精神性や現実性のバランスを、象徴的にカードに配置しているように思います。

と言っても、最終的には、それ(タロットのような現実と非現実を架け橋する象徴ツール)を扱う「人」、その「人」の求める方向性、バランスの問題が重要となるでしょう。

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