助け、助けられること。「救済」についての一考

マルセイユタロットでいえば、主に「節制」のカード、またはその他のカードにも描かれ、テーマとなるものに、「救済」、平たく言えば、「救うこと」「助けること」があります。

これについて、今日は書いてみたいと思います、

まず「助ける」という前に、客体である「助かる」者の側から見てみましょう。

「助けられた」と思う場合、やはり普通は「助かりたい」という思いが前提にあるか、少なくとも、何か苦境であったり、困ったりしている状況にあるはずです。

その後、何かのサポートが入ったり、状況が変化したりして、「助かった」という気持ち(状態)になります。

ということは、当たり前の話ですが、本人が困った状況であると感じていない限り、本人(助けられる側)目線での「救済」はあり得ないということになります。

ただ、本人がまったく無自覚であっても、あとで「実はあんた、あの時は、すごく危なかったんだよ」と知らされ、その危険さが実感できれば、「救済された」と思うことは可能です。

そして、たとえそのケースであっても、時間差で、とにかく「普通ではない状態(であった)」という感覚が本人には必ず存在して、「救済」がなされる(なされたと思う)わけです。

ここから考えると、繰り返しますが、困ったり、不快だったり、避けたい・逃れたいと思ったりする、何らかの心境が起こらない限り、「救われた」「助けられた」という救済感覚は生じないことになります。

人生、困るのは誰でも嫌なものですが、それがないと「救済」されたというあの感じ、安堵感、癒し感覚も味わうことがないわけです。

束縛があるから解放や自由が感じられるのと同じように、助けられたい、救済されたい状況を感じてこそ、救済が訪れるという、ここに人生の当たり前で不思議なルール(作用)があります。

これが、マルセイユタロットの「13」と「節制」が向き合う理由のひとつとも考えられます。

一方、助ける側、救済する側から見ますと、これは、相手の感情や思いとは関係なく、救済する側さえ「助けた」と思えば、救ったことになります。

これはむしろ一方的であり、傲慢ささえ生じることもありますが(いわゆる「お節介」)、反面、救いの偉大さと言いますか、救済の適用の範囲が、救われる対象の当人の思いとは無関係であることで限りなく拡大し、仏教的な、皆が救われる、「一切衆生の救済」というような観念にもつながっていくように感じます。

マルセイユタロットで言えば、「節制」から「星」への移行的なイメージが浮かびます。

それから、再び、救われる本人側に回ってみますと、「救われる」ということは、物理的・環境的なものよりも、心情的・思考的・精神的な部分での影響が強いと考えられます。

というのは、たとえ少々健康に問題があるように見えたり、お金がなかったりしても、安心・安全・平穏に暮らしている人もいらっしゃるでしょうし、別に困ったと本人は感じていないこともあるからです。

その場合は、「助け」などはいらないのです。

反対に、とても物質的にも恵まれ、何一つ不自由ないように周りから見えても、その人の心の中では暗く、寂しく、救われたい、助けてもらいたいと思っているのなら、やはり救済は必要となります。

さらに、いくら他人が救ったと思っていても、当人にその自覚がない限り、本当の意味(当人の世界観の中)で救われたということにはならないのです。

さらには、「救い」「「助け」の価値観でさえ、人によって異なる場合があります。

他人の思う「救済」と「方法」が、当人にとっては何の役にも立っていないことがあり、救済どころか、逆に束縛や悩みを増やすことにもなりかねないケースがあるのです。

これは「幸せ」の価値観が人によって違うのと同じです。

また、救われたいと思っていない人を救おうと思っても、なかなか難しいものであり、その段階では救う必要もないか、違うアプローチが求められることもあります。

しかし、救う側から見れば、次元の違う「救い」をしている場合があり、救われる当人の次元においては「救われていない」という認識であっても、当人の別次元ではやはり救われているということもあり得るのです。

例えば、救う側が未来に救済の布石を打っていたとして、しかし当人の現在次元では気がついていません。

それでも、その時が来れば、(未来が現在になれば)救われる仕組みになっているというような状態です。

このような次元の違いや本人認識とのズレがある「救済」は、救われる側からは、すぐに理解ができず、救う側を誤解をしたり救済そのものを「試練」のように感じてしまうこともあったりします。

このように、救い、救われる、助け、助けられるということを、いろいろな角度から見ていくと、様々な「救済」の形があることがわかります。

そして、現実の人生だからこそ、「救済」という感覚が生身のものとして味わえるということ、そこに「愛」を拡大させるものがあることに気づくでしょう。

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