自己分析の型・枠を突き抜ける

最近の若い人は、自己分析をしっかりとして、就活に臨んだり、人生設計をしたりしていると聞きます。

そうした人は、広告や宣伝に踊らされてやたらとでかい夢を無理にもたされたり、大きな消費をさせられりすることもなく、昔に比べると、冷静でよい傾向でもあると思います。

しかし一方で、何事もそうですが、行き過ぎると問題です。

自己分析と言っても、その土台になる代物、いわば基準の拠り所も、ある人物か会社、組織が作成したものでしょうし、今の社会に適応するような基準、言ってみれば、雇う側からすれば「扱いやすい」雇用者になるための価値基準みたいなところもあるわけです。

少なくとも、既成の価値判断によって、その枠の中で分析させられるものと言えます。

社会は常に変革して行き、人も変転し、成長、あるいは堕落する存在でもあります。

人の可能性は∞・無限大だとも言えますが、ある枠に囚われれば、とても小さな範囲に収まってしまうおそれもあります。

どんなにしっかりと自己分析したところで、それはある枠と、その時の自分の中での分析しか過ぎないところがあります。

言わば、枠などぶちこわし、「自分」なんて分析やしっかりと認識のできないあやふやなものであって、時には既成価値など破壊し、突き抜けていく存在にもなれるものなのです。

不安定さこそが、次の大きな安定につながることもあり、そもそも不安定さ・不確定さは、自分の変容のためには恩恵でもあります。

かと言って、破れかぶれに行けというわけでもありません。

社会と合わせ、調和する自分も示しながら、一方で、形や、一度決まった型は壊される運命にあり、それも悪いことではないと言っているのです。

若いうちから守りに入っていても、いずれ自分の中に必ず、変化の種が成長し、既成のもの(自分)を怖そうとする危機が訪れます。

いえ、これは年を経てからも、むしろ中年以降にも、そうしたことが起こってくることはよくあります。

それは、内からのものと外からのものがあります。

内からというのは、心の葛藤やつらさ、得体の知れない鬱々とした気持ち、「これではない」「ここではない」というような焦燥感のような感じのものと、「こうしたい」「ああなりたい」という強い気持ち、「それをしてはまずいかもれないけれども、どうしても抗えない」という強烈な衝動・欲求のようなものとして、わき起こるものもあります。

一方、人からのものは、文字通り、環境・人など、外側から自分に押し寄せてくる危機、トラブル、問題などです。

結局のところ、一度安定したと思う自分が破壊され、新しいバージョンに生まれ変わるために、そうしたことが起こってくるのだと考えられます。

古いものにしがみつこうとすればするほど、破壊する力は大きくなるため、つまり問題や衝撃も強いものになってきます。

長い間放置したパソコンを起動して、ネットにつなぐと保護の意味でも危険なように、常にバージョンアップして、メンテナンスを繰り返していないと、生きにくい(生きづらさを感じる)自分になります。

いわゆる「悟り」ほどの境地に行き着けば、どんな状況でも臨機応変に楽しく生きることも可能なのかもしれませんが、普通の人には難しいことです。

逆に言えば、「悟り」は、どんな変化にもほぼオートマチックで対応できる究極の「可変対応型人間」の境地のことかもしれません。

ここに不安定さの意味があり、マルセイユタロットでは最高境地を象徴する「世界」の前に、重要なカードとして異質性を醸し出す「月」カードに、深淵なる秘密があると想像されます。

いずれにしても、楽・安易に生きようというのではなく、また無闇に危険や無駄、頑張りを入れすぎるのでもなく、自分のコアや芯・核を持ちながらも、その外皮や周辺は、様々に可変できる心があればいいということになります。

それには、先述した内と外から来るもの変化の波、危機・不安定さを受け入れることも、時には必要です。

そうすると、今までの自分を突き抜けて、新しい次元の自分ができあがり、それは過去に分析うんぬんで出てきた「自分」とはまるで違うものを持った「自分」であることに気ぎつきます。

こうして人は次第に覚醒、変化していき、社会や世界もそれに合わせて新しく創造されるのだと、マルセイユタロットを見ていて思います。

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