ロマンと現実 そしてマルセイユタロット。

先にお知らせです。

4月から計画している東京でのマルセイユタロット講座ですが、開講が決定しております。

もともと少人数制の講座ですので、当然と言いますか、開講決定と同時に、残席わずか(ほぼあと1名)となっております。

個人的にはここのあたり(今月の新月)を境目にして、変化の波に来ている方が多いように感じており、この講座開講も、その流れの一環にあるように思います。受講を検討されている関東の方、どうぞ、この機会をご利用ください。

では本日の記事です。

今日は、ロマンと現実のふたつの必要性を考えてみたいと思います。

ところで、ここで述べる「ロマン」とは、小説の形式とか学術的定義とかではなく、単に夢とか空想、非現実的な状態を指すとします。

さて、ロマンにしろ、現実にしろ、それはどこに存在すると思いますか?

私たちの見ている場所・外側の環境にあるのでしょうか。

確かに「現実」に関しては、そうと言えるのかもしれません。

ではロマン(夢や冒険的なもの)はどうでしょうか。

こちらは見ている場所には存在しないからこそ「ロマン」と言えるのかもしれませんが、しかし、例えば恋愛モードになっていたり、願望がかないそうになったりすれば、外にロマンを見ている状態のようにも思います。

ですが、より詳しく探っていくと、結局、現実もロマンも、自分の見方・思いのなかに存在していることがわかります。

まったく同じ状況が外側で起こっていたとしても、それを夢のように思えるか、シビアな現実だと感じるかは個人次第と言えるからです。

となると、すべては現実でありながらロマンでもあり、その境目は実はなく、自分が創ってる、決めていると考えることもできます。

ただ、今日はそういうお話ではありません。

言いたいことを先に言います。

それはロマンは解放と束縛を生み、現実は生きる実感を感じさせるものであるということです。

こう書くと、何か、よくわかったようでわからない印象かもしれません。

まず、ロマンから説明します。

ロマンは夢や空想、文字通り、ロマンチックなものなので、フワフワしたものとなるのはわかると思います。

場合によっては、現実として実現していないこと、現実にはないがロマンというケースもあり、それだと尚さら(フワフワしたもの、実体のないもの)です。

しかし、非現実的だからこそ、現実を超えたものに接する機会がロマンにはあるのです。

現実とは、言い方を換えれば、その人がリアリティを覚える状態(現実感・実体感・本当にあると信じている感覚)のことです。

つまり個人の常識感覚で構築される世界でもあるので、いわば、その人の固定観念や価値観が反映されます。

しかし、ロマンはその人のリアリティとは異なるので、その人にとっては「ロマン」なのであり、それ(その人のロマン)は解釈を変えれば、まだ自分が感じていないリアリティでもあるわけです。

ということは、今のリアルを超えるリアル(まだ訪れていない、味わっていないリアル)がロマンには可能性として存在します。これをプラトン的に言えば、「イデア」と表現することもできるでしょう。

そして、マルセイユタロットを使って、イメージや象徴の世界に飛ぶ時、この究極のロマンともいえる「イデア」を見ることにもつながってきます。

そのことで、固定されていた自分のリアリティが一度破壊され、再構築されます。このことはマルセイユタロットの「女帝」「13」などでも象徴されていることです。

こうして新しいリアリティを獲得していきますが、それは前の自分の時よりよりも統合された状態であることが多く、つまりは次元の上昇や拡大と言ってもいいものです。

しかしながら、反対に下降と限定(固定)という方向になってしまうおそれが、ロマンにはあります。

こちらのほうがわかりやすいと思うのですが、ロマンは現実と違いますので、幻想や思い込みの世界にも通じるわけです。

現実逃避と言われるように、人は自分が感じているリアルの世界に苦しみやつらさを過大に味わうと、そこから逃れたい、不快を通常に戻したい、快にしていきたいという思いに駆られます。

身体的な作用でも当然現れますが、心の面でも同様です。従って、非現実的な世界を信じることによって、心の均衡を保ったり、それ以上傷ついたりしないようにロマンに逃げ込んだりするわけです。

ほかにも、現実では自分が認められない世界だと思うと、自分が認められている(存在する価値が多大にあると思う)ロマンの世界に固着(執着)することもあります。こちらは典型的なものとして、「中二病」が有名です。(笑)

こうした方向にロマンが利用されてしまうと、解放とはまったく逆の、束縛や閉じこもりになってしまいます。

一方、現実はロマンとは反対のものですが、本質的には、実体の世界(実体があると信じている世界)と言えます。実(じつ)がある、身(実・み)があるということで、形も大事です。

また先述したように、「現実」とは、一見、客観的で皆が同じく感じていることのようでも、本当は自分がリアリティを覚えている個別的なものでもあります。

ですから普遍的な現実と個人的な現実のふたつがあると考えることも可能です。

これは時間の感覚とよく似ています。

「時間」は大きく分けると、時計で計る、言わば惑星の回転を客観的・普遍的に見た時間と、個人個人の内面で感じる質的な時間とのふたつがあります。

これと同様に、全員が等しく感じる現実と、個人特有の現実があるということです。

それはともかく、いずれにしても、現実は実のある世界なので、それは言い換えれば、自分がリアルに生きていると実感する世界だと言えます。

地に足をつけているとか、確かに生活している、生きていると感じる実体(実態)感覚の世界です。

ロマンは夢の世界でもあるので、そこではリアルに生きているという感覚とは違ってきます。

「そこ(ロマン世界)にいることもある」というような一時的、待避的、特別的なのがロマンです。

対して、現実は日常であり、普通であり、ノーマルな状態です。だからこそ、そこに実(じつ)、生命・ライフ感覚があります。

もしロマンに実(じつ)を感じ、ロマン(空想やイメージの)世界の住人・生き物たちが生命感覚を持ってリアルに感じられるとすれば、それはその人にとってロマンはもはや現実に近い状態となります。

一時的にはそれでもいいのですが、きちんと万人の感じる共通現実(個人の現実とは別)と区別しておく必要があります。

そうしないと、混乱しますし、とても生きづらく、場合によっては危険です。

しかし逆に言えば、その区別さえしっかりすることができれば、現実を超えた多重の世界の情報と生命に接することができ、人生の色合いが増えます。

タロット(に描かれるもの)は、ロマン側のものでもありますが、その調整と活用によっては、現実(特に個人の思う現実)を豊かにしたり、生きやすくしたりします。

ロマンのうまい現実への活用と言い換えてもいいでしょう。

人は強固な現実感覚だけでは息がつまり、ライフ感はあっても、続けていると消耗感も発生します。

ですから、適度なロマンが必要なのです。それは逃避であってもいい場合があります。

また一方で、ロマンや夢だけでは、まさに非現実を生きることになり、厭世観が強まって生きる力をなくしたり、「タナトス」という死や破壊に向かうのエネルギーに翻弄されたりします。

マルセイユタロットのような象徴道具を正しく使うことで、このロマンと現実の間をスムースに移行・交流することが可能になります。

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