人のタイプ論について。

私たちはタイプ(型)に分けるのが結構好きなようです。

いわゆるタイプ論は、問題の把握や物事(人間)の整理において、とても便利なところがあります。

パターンやタイプ、型に当てはめることで、理解したり、対処したりすることもやりやすくなるからです。

そして、ここが重要なところですが、人には未知なことは既知としたい欲求(知りたい欲求)、不安定なものを安定させたい気持ちが働きます。

そのため、自分や他人がよくわからないような時、「あなたは、なになにのタイプなのよ」とか、「自分はこれこれのタイプだ」と言われたり、わかったりすると、安心するわけです。

これは人間においてだけではなく、問題が起きた時、心身の不調など原因不明のことがある時など、やはりタイプやパターンを調べて、それに当てはめ、どうやらこれと同じ、このタイプだなとわかると、とりあえず、ほっとできます。

また、こういうこともあります。

仕事や恋愛など、ある問題で悩んでいる時に、自分の「人としてのタイプ」を知るだけで、何だか問題か解決したような気分になることもあります。

占いなどでは、実はこういうことはよくあります。

「あなたの気質や運勢はこういう型だから・・・」と言われると、「そうか、今起きている問題はそれが原因だったのか」と、自分で自分を説得させてしまうわけです。

タロットにおいても、数秘的に見たり、四大元素的に見たりして、人間をある種の型・タイプに分けることがあります。

今述べたてきたような習性が人にはあるので、自分がタロットによって、あるタイプに分けられると、何か嬉しくなってしまう人もいます。

ただし、何事も反面要素があります。

タイプ論は確かに便利で、人を安心させたり、問題の把握・解決に利用できたりするところがありますが、「型にはまる」という言葉があるように、タイプに執心してしまうと、そこから「タイプ」が囚われになります。

いわゆる色メガネと言ってもいいでしょう。

タイプは自分や人を知るための技法であるのに、逆に、自分や人をタイプに押しつける、無理からにタイプに当てはめてしまうようになってしまうのです。

タイプこそが絶対で、正しいもので、これに当てはまらない人はおかしいというくらいになり、いついかなる時も、自分の信じるタイプ論で、人を区分けしないと気持ちが収まらなくなる人もいます。

言わば、人のためのタイプ論が、タイプ論のための人になっているわけです。

私はタロットにおける人のタイプ論も、講座で言及しますが、注意点として、それにこだわらないことも伝えています。

要するに、人は、あるタイプに分けられはしても、結局、すべてのタイプを持つ可能性がある存在なので、どれも当てはまらないとも言えるのです。

もともと持って生まれた性質や傾向、そして成長していく過程において身につけた様相というものもあって、それがタイプとして分けられることもあるのは事実でしょう。

しかしながら、それを超えられる可能性を持つのも人間です。マルセイユタロットでは、むしろそのことを伝えていると言ったほうがよいです。

とはいえ、無理して自分のタイプを変えようという意味ではありません。

超えるというのは、タイプを理解したうえで、タイプに囚われないということになります。

平たく言えば、どうだっていい(笑)という心境になるみたいなことです。

どのタイプであれ、自分に必ずどれも内在しており、その反応は人によって違いますが、タイプがわかるということ自体、自分も、そのタイプの一部があるということなのです。

そして、これも大切なことですが、タイプ・傾向して区分けされるのならば、言わば、人の得意・不得意みたいなものとして考え、それぞれの役割の分担、シェアによって全体が成り立つことを思えば、自分が楽になります。

自分が不得意なものに、得意な他人がいて、その逆に、他人が不得意なものが自分には得意なこともあります。

さらには、レベルという縦の発想を入れると、その得意分野を高度にしている、専門にしている人もいれば、一般レベル、平易レベルを得意としている人もいます。

不得意も同じで、不得意がかなり高度(つまり、超苦手)の人もいれば、食べず嫌いのように、少し学べば通常レベルになる人もいます。

そうした様々な分野において、レベルの違いがあるのも現実の人であり、社会です。それらで助け合い、提供し合い、世界が成り立っています。(全体で充足している、ただし、全体として完全でも、配分バランスの問題はあると考えられます)

タイプ論は、自分のタイプを知ることで、自分をよく理解し、安心させることができますが、行きすぎると、言い訳や執着になり、かえって自分の成長を遅らせます。

自分を知るだけではなく、他人を知り、それが自分の中にもあることを理解するうえでの一助となるのがタイプ論でもあります。

言い換えれば、タイプ論は、自分の個性を知り、自分らしく生きる指針として活用すると同時に、全体性への統合(自分自身、そして他人や外の世界との統合)の意味でも、使うことが求められます。

自分が「あるタイプ」だとわかって安心している段階から、次のステップに進みましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top