マルセイユタロットの「愚者」の表す表現や人生

マルセイユタロットの「愚者」は、ほかのカードの中でも、特別なカードだと言えます。

何よりも、ほかの(大アルカナと呼ばれる)カードには、数がふられていますが、このカードだけ、数がありません。

数がないものがあるということは、逆に、タロットカードの「数」には、ある種の意味があることがわかります。

また数を持たない「愚者」というカードは、数の概念や数値性、規則性とでもいうべものからは逃れていることがわかります。

絵柄からも、旅人の姿をしていることで、移動性や自由性が示唆されています。

個人的には、「愚者」はあらゆる問題から脱出できる意味では、最高のカードだと感じますが、自由性と移動性が極まっているので、安定や形ということが強調される現実的観点からは、逆に不自由な存在、忌避されるべき事態、危険で異常な状態として見られることもあります。

どこか拠り所や居場所のようなものを求めていると、「愚者」にはなれず、反対に「愚者」であろうとすると、普通の感覚がわかりづらくなります。

では、このタロットが示唆する「愚者」性と、現実社会で生きる私たちは、どう向き合い、折り合いをつければよいのでしょうか?

簡単に言えば、時代や自分自身が動く時(変化する時)、私たちは「愚者」性を必要とし、通常時は「愚者」ではなく、ほかのカードの象徴性を意識するとよいと思います。

今の状況に閉塞感があり、何か変化させたい、変わりたいというような時は、「愚者」を自分に取り入れます。

現在は、時代自体が安定しているようで、実は流動的でもあるので、むしろ、「愚者」性は重要であり、必要となる人は多いのではないかと思います。

とはいえ、何か組織や基盤を作りたい、システムを構築したいという建設的な働きが求められる場合は、愚者性はなじみません。ただし、チームの中には、愚者的精神の人がいたほうがよいこともあります。

それから生き方に悩む人には、「愚者」は様々にヒントを与えてくれます。

もともと自由闊達な人には、そのまま「愚者」が心に住んでいる、その人自身が「愚者」を体現しているので、「愚者」を特別に意識することはいらないでしょう。

「愚者」的な心や生き方を呼ぶことが必要なのは、むしろまじめで固く生きて来た人、他者の評価を気にして過ごしてきたような人なのです。

言い換えれば、自分の中の子ども心を封印してしまい、大人として社会に必死でなじもうと努力してきたような人です。

そんな人は、意外にも、中年以降、ふとしたことで、自分の生き方について「これでよかったのか・・・」と悩み、インナーチャイルドのような、おきざりにしてきた自分の「子ども心」との葛藤を経験するようになります。

そうした「心の中の子ども」は、ここに来て自分の存在感を示そうとし、今の大人の自分との統合を果たそうと(最初は復讐でもあり、ダダをこねることでもあります)、もがいてきます。

そのような「子ども心」が、象徴としての「愚者」と言ってもよいでしょう。

いずれにしても、放置しているとつらくなりますので、犬とともに歩く「愚者」のカードように、子連れ(自分の中の子ども心とともに)で、旅立つことをしていきます。

それは、少しずつ、自分の本当にしたかったこと、生きたかった表現を出し、実現させていくことでもあります。

そうすることで、心に自由性を持ちつつ、責任も意識できる大人として、自身の統合を果たしていくことができます。

どちらかに偏ると、歪な人間として、自分も他人も苦しいことになるでしょう。

それから、先述したように、数を持たない「愚者」は移行性・移動性を示しますが、逆に言えば、どんな数になることもできる存在です。

自分の居場所を求めて孤独感を味わっている人は少なくありませんが、そんなもの(探し求める固定した居場所)はないと割り切り(笑)、「愚者」のようにさすらっても、今いるところ、今意識しているところが居場所なのだと思うことで、どこにあっても、どんな時でも、「自分の家」「自分の居場所」を意識することができます。

「今日の宿屋がオレの家」「アタシの居場所は毎日変わる宿屋なのよ」「地球が、宇宙が、私の家」みたいな感じです。(笑)

風来坊といえば風来坊ですが、自分の中の精神・魂こそが本当の安らぎであり、居場所であることが、「愚者」から学べるのです。

マルセイユタロットから見ると、ひとつところ、ひとつのものの思想や考え・思いに、自分のすべてがある(すべてを依存する)という風になることは問題だと言えます。

自分の中にある様々なエネルギー、性質に応じて、必要なところ、ふさわしい人物たちに導かれると見た方が良く、まさに自分の表現フィールドというものは、様々にあると考えたうほうが楽です。

「この人達とは、自分の中の「これ」を楽しもう」また、「自分の中の「あれ」はあの場所で楽しもう」というように、分けて考えるような感じですね。

「愚者」は数を持ちませんが、だからこそ、全部の数を持つともいわれ、それぞれの数に応じた表現を、その時その時の「数」のカードになって、自分を楽しませる存在であるとも言えましょう。

自分がこのような「愚者」になれば、人生は文字通り「旅」となり、苦しみも喜びも、「ひとつの流れ」として見ることができるでしょう。

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