「13」に思う「再生」

今日、浮かんで来ましたのは「再生」というテーマであり、マルセイユタロットのカードとしては、「13」の姿がイメージされました。

「13」の場合は、いろいろな解釈はあるでしょうが、絵柄には骨と皮の人物が描かれ、見ようによっては、大変苦しく厳しそうに感じますので、むしろ「再生中」というように、その過程や、まっただ中の状況と言えるかもしれません。

再生後であるならば、「審判」のほうが意味的には合うでしょう。それでも、あえて「13」で再生をテーマとして見てみたいと思います。

さて、ここで、もし「再生」というものがなく、ただ死滅してしまう、終わってしまうだけだと考えてみてください。

それでは、まさに地獄と言いますか、闇の中のループが永遠に続くみたいになります。

しかし、その状況も、やがて抜けることができる、新しい自分に生まれ変わるのだという、変化・変容を信じることができれば、つらくとも希望が出て、推進力や耐える力が生まれます。「13」では杖のようにも見える大鎌でも、それを感じさせます。

私たちの生きる現実は、うれしいことや楽しいこともある反面、大変厳しく、つらいことも多い世界です。

その量は同じかどうかは、見方や人によるかもしれません。

けれども、世界全体を見回せば、戦争や貧困、災害等、その他様々な問題のあることがわかり、むしろ人生が楽しく幸福と思っている人よりも、つらく苦しい人生にある人のほうが多いのではないかと思えることもあります。

ここで世界が変わらず、たとえ変わっても、さほどのものではないとしたら、やはり絶望せざるを得ない人も出るでしょう。

けれども、よくよく考えれば、この世界は不変のことはほとんどありません。

生々流転、始まったものは終わりを必ず迎えます。人も生まれると、やがて年を取り、死を迎えます。

誰一人、まったく同じ状態が人生で続く人はおらず、当然自分だけの世界ではありませんから、他人や社会、国、世界全体も常に動き、変化しているものとすれば、現実とは変化する世界であると言い換えることもできます。

変わらないのは、まさに「変わらない」と思うその気持ち、思考であり、言い換えれば、心の中では「変わらずの状態」にすることは可能です。

ですから、心の世界では不変はあり得るのかもしれません。ただ、これも、あくまで自分の思いだけであり、他人の思いや考えが変わることを止めることはできません。

話を「再生」に戻します。

再生するためには、一度、何らかの変化のプロセスを通過しないといけません。

「再生」であるならば、文字通り、再び生きること、再び生き返ることであり、ということは、一度その前に「停滞」から「死」「終わり」を迎えなければならないわけです。

「再生」が、単なる変化ではないことが、これでわかるでしょう。

とはいえ、「再生」も変化の一種であり、言わば、死から生に推移するほどの、極端で大きな変化が「再生」なのです。

そこで、先述した「現実とは変化する世界」という話とリンクしてきます。

幸いにも、この現実世界は変化がノーマルなので、至るところに変化の機会・場所は存在しているわけです。年を取っていくだけでも、変化していく状態です。

この中でも、さきほど言及した、極端で大きな変化となると、それが「再生」の過程に近くなります。

変化することが常の世界ならば、つらく苦しい状態でも、再生の希望はあるということになります。

再生が見えないのは地獄だと述べましたが、それはこの世界における自分を勝手に絶望させているだけだからかもしれません。

この世界は変化するのですから、自分を変化させていくことを受け入れれば、大変な状況においても、「再生」という光を見い出せるのです。

あきらめて、自ら肉体的に死を選んでしまえば、せっかくのこの世界の変化性の特典を利用せずに終わることになります。

ただし、いい・悪いは別にして、自分で死を選ぶという自由さえもあるのが、またこの世界です。その結果がどうなるかはわかりませんが。

しかし、再生は単なる変化ではありませんので、精神的には「死」というものを受け入れる覚悟がいります。それは象徴的に、古い自分を殺す、今までの自分が死ぬことになるものです。

これがある大きな現実の「問題」として、外から起こる場合もあれば、自分の中から起こる場合もあります。

いずれにしても、「死ぬかと思った」というような事件が、再生に向かわせます。

これはいわゆる肉体的な「死亡」「絶命」のことを言っているのではなく、象徴的・精神的「死」のことを指しています。

普通は、なかなか精神的に「死ぬかと思った」というようなことはないでしょう。そんな経験はあえてしなくてもよいはずです。

しかし、どうしても、本当の意味で「再生」したいのなら、死ぬかと思うくらいの経験、あるいは、まさに真剣になる、ギリギリ感覚の体験が必要です。

だからといって、車や電車に飛び込むようなことをしろと言っているのでは、もちろんありません。

またわざわざ、仕事で自分を追い込み、生死をかけるほどの体験をしろと言うのでもありません。

ただ、再生は死や終わりというものとのセットであるので、何かが終わることの覚悟・受容、終わらせる積極的決意を持つことなのです。

そして人生の苦しい体験・事件・問題においては、絶望せず、自己の再生を希望とし、これが魂の研磨であり、余計なものは、それによりそぎ落とされ、純粋な自分(神性なる部分・貴い部分・魂次元で求めるもの)が立ち上がり蘇ってくるという意識で臨むことです。

順風満帆を求めるのは変化の世界では矛盾していることです。しかし、無闇(まさに知性が闇に閉ざされている状態)に苦労し、つらさを味わいすぎることもありません。

私たちはこの世界で、「再生」を経験し、もっと純度の高い自分になるよう、旅をしていると言えます。

もちろん個人の目的・人生は人それぞれです。そこにも変化と選択の自由があります。

なお、ひとつの再生が完了すると、それは前の自分ではなくなり、まさしく生まれ変わって、次元を移行させています。

SF的に言えば、同じような人・環境・世界のように見えて、その本質は皆変わっています(次元移行している)ので、あなたが見てきた人とは別人であり、違うフィールドなのです。

いわば、多重に存在するいくつもの地球のひとつから、また別のどれかの地球に移行したという感じです。

ですから、急に人の対応がよくなったり、場所がキラキラと輝いて見えたり、ほかの場所に行きたくなったり、ほかの人とつきあいたくなったりするのです。

再生ではなく退行の場合でも、次元でいえば下降がありますので、それも逆の意味で違う世界に行くことになります。

「運命の輪」のようにクルクル回っていては、再生しているようでそうではなく、それは「死」を迎えていないのです。

心の世界は不変が可能ですから、終わらせていないもの、死しんでいないものは、ずっと同じ次元で拘束し続けることになります。

これが思い出や過去に囚われることの意味にもなっています。

ですから、死(終わり・完結)の意識が「時間」を進ませ、無限地獄のような闇からの解放を促すのです。

あの世(目に見えない世界)ではなく、変化が常にあるこの世、現世、現実でこそ、解放のチャンスは多いのだ気づくことが重要です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top