タロットを使う目的、グノーシス

タロット、特にマルセイユタロットには幾つかの目的によって、使い方が変わってきます。

それ(目的)は階層や次元・レベルと置き換えてもいいものです。

まず、一番楽しいのは、遊びで使うというものでしょう。

もともとタロットは一般的にはゲーム、いわば私たち日本人の思う「トランプカード」的な目的で製作販売されていたところもありますから、それはそれで、ある意味、伝統的で正しい使い方といえます。

そして、この遊びの範疇に入ってくるものの、ゲームではなく、ライトな「占い」で使うというものがあります。

「私の○○どうなる?」的な、ちょっと状況をカードで見てみたい、という雰囲気に使用するものです。これも皆さんでやってみると、楽しいですよね。

そして、「占い」でも遊びではなく、ややヘビーといいますか、真剣な悩み事の相談として「占い」を行うことでも、もちろん使えます。

だいたい、そうなってきますと、心理レベル、心理次元での投影や象徴として、カードを見ていくことになります。

占いとは別に、カウンセリングやセラピー(心身、特に心の浄化・調整・癒し)として、心の範疇をメインで扱うタロット使いがありわけです。

おそらく多くの人は、この次元でのタロットの使用を求めており、タロットを学びたいという人も、タロットを使った対人援助・相談を行うことが目的で学ぶ、という方も少なくありません。

さて、そのほかのことでタロットを使う目的はあるのか?ということになますが、細かく言えば、これ以外でもたくさんあります。

ただ、大きな括り、レベルや次元別でいえば、特にマルセイユタロットの場合は、霊的な成長、霊的レベルでの統合、グノーシスの完成のために使うというものがあります。

これは一見、心理次元のタロット使いに似ているのですが、大きく異なるのが、自己を宇宙レベルの規模で考察していくということにあります。スピリチュアルといえば、まさしくスピリチュアルでしょう。

平たく言えば、「社会と自分」というような枠組みを超えて扱うということです。

変な言い方になりますが、自分が現実や社会で生きやすくするためにタロットを使うのではなく、現実そのもの、社会そのものを根底から変える(変える必要があることを認識する)ためにタロットを使うということになります。

ところが、これまた禅問答みたいになりまずか、それが外に働きかけるのではなく、自己、内側に作用していくというものになるのです。

内側に働きかけるので、心理次元の使い方と似たような段階を通ることになるのですが、狭義の心理次元の範囲に収まらないのが、タロットを霊的に使う目的となります。

ただし、それは非常に抽象的であり、難しいところなので、具体的な方法となると、うまく言えないところもあるのです。

しかしながら、これもまたマルセイユタロットのすごいところなのですが、タロットは目的別に示唆を与えてくれるところがあり、グノーシスや霊的探求を志していても、ちゃんと導きがあり、折に触れて、その「光」「叡智」に気づかせてくれるところがあるのです。

グノーシスとは、「霊智」ともいえるもので、自分の中の「神性」を覚知(認識)することの意味です。

智慧はタロットにあるのではなく、自己にもともと存在している神的で高次な部分にあるのです。

ただそれに気づくきっかけや知識、経験、感性が必要だということになり、その有力なもの(ツール・書物)がマルセイユタロットだということです。

具体的に「こうだ」とは文字で書かれてはいませんが、イメージ的な話でいえば、タロットの精霊が導いていくれる、教えてくれるというようなものです。

イメージの世界の最高度のところには、イデアという世界があります。これは哲学者プラトンが言及した理想・完全なる世界です。

イデアに到達するためには、普通の思考では難しく、イメージや感覚、同時に知識も必要です。特に図形と幾何学は重要です。

グノーシスは、この世界が偽の神で作られているという反宇宙論、世界を否定的に見ることから始まりますから、まともに考察していると、とても苦しい状況になります。

今言われているスピリチュアルな話では、そのほとんどが、この世界は愛で調和に満ちた世界である、神(大いなるもの)の恩恵でできているという前提でいます。

それを感じられないのは、ひとえは私たちの認識不足、偏り、不調和、束縛にあると考えます。

愛に気づき、自己を解放していけば、幸せな世界になり、経済的にも精神的にも満たされるという話にもなります。

しかしながら、グノーシスは、それに気づけば気づくほど、この世界が嘘偽り、欺瞞でできているということになってきますので、やればやるほど自分が苦しくなり、まともにグノーシス的世界観を信じるのは、バカらしいということになってきます。

同じ「愛」や「神性」の気づきでも、この「神性」という前提の「神」が、まことか嘘かで、まったく話が違ってくるのです。

最初に「嘘」という前提に立つグノーシスは、現実的には、いわば救いようのない話と見えるわけです。

従って、現代ではまじめにグノーシスを考える人も、おそらくほとんどいないと思われます。まさに矛盾したおとぎ話です。

この大矛盾の思想が、なぜかつて隆盛を極め、一度下火になるも、中世ヨーロッパでは、再びカタリ派として、南仏を中心に、カトリックと違う異端の教えが広まったのかと考えてきますと、なかなか頭では理解しがたいことだと思います。

ところが、私はマルセイユタロットを通してカタリ派を見てきますと、その出家階層ともいえる人たちの純粋さの思いに至ってきました。

本当に、善き人でありたい、この世界が善き世界でありたい(善き世界にしたい)、そういう純粋な思いが込められているのです。カタリとは清浄や浄化を意味する言葉でもあります。

実はとても現実(世界)を見ているからこそ、グノーシスやカタリ派の人たちは、それを信仰していたと考えられます。

冷徹な目で見ると、当時の社会は、支配・不均衡・不調和で、現実は汚く、腐敗しているように見えたのでしょう。それはもしかすると、当時も今も変わりないのかもしれません。

そして、本当のグノーシスとは信仰ではなく、目の前の現実を見据えた知的探求と純粋思考・純粋感性にあると感じます。

信じる時点で、それはもう堕落を意味します。

話は変わりますが、2011年に放映され、大きな話題となった「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメがあります。

ネタバレになるので、詳しくは言いませんが、このアニメでは、「魔法少女」になるため、ある存在と契約した女の子たちが、生死に関わる大きな矛盾に陥るようになります。

幸せになるため、愛のため、または時には自己(エゴ)の満足のため、魔法少女という特別な力を得た代わりに、とてつもない矛盾に抱えることになるわけです。

善だと信じた世界が悪に変わり、その究極の輪廻・ループ・牢獄とも思える中で、いかに解放にもっていくのか、これが描かれていきます。

私はこのアニメを見ていて、はっきりとグノーシスを感じました。先述したように、グノーシスをまともに探求していくと、絶望とも思える世界の矛盾に苛まされます。

自己の神性に救済はあるというのがグノーシスですが、なかなか現実的・精神的には大変なことにもなります。

しかし、このようなアニメの世界においても、グノーシスの光があったのです。アニメーションは、イメージの世界だからこそ、イデアに接することができるのだと感じます。

グノーシス神話には、悪や偽の世界においても、私たちの魂を救済するための援助者、神性の光が散りばめられていると言われています。(反対に閉じこめる存在も多数)

苦しい時にあっても、グノーシスを探求する者は、それ(神性の光)を見ることができます。

心理的には自分の作った価値観と世界観の中で、自己を悲劇のヒロインや主人公にして、わざと苦しい世界に自分を設定して、そこで頑張ることで「自己の価値」を偽りのシステムの中で見出している(作っている)、という話もあり、苦労する人、縛りを作りたがる人の心理的理由にもなっています。

グノーシス思想を取り入れる人も、それだと指摘できるかもしれません。

要する、ブロックのひとつ、自己妄想、自己信念、自分の創造するストーリーの一つであると。

バカだと言えばバカであり、もっと楽に気軽に考える世界を選択してもよいのです。

ただ、私のような者は、「愚者」となって、グノーシスの道を歩みたいという思いがあり、それは深く魂の叫びのようなものがあるのだということです。

自分だけがよい世界では、まさに自分一代限りのことです。グノーシスは時間(の概念・感覚)がないともいえ、同時にまた一方では、長大な時間周期を考慮に入れます。

マルセイユタロットの「愚者」には、そのようなシンボル・象徴が描かれています。

そして初めに戻りますが、タロットはこのような、バカげた思想(笑)の探求に使うこともできますし、ライトな占いや、心理的調整道具として使うことも、もちろんできるわけです。

どの次元を扱うかは、その人の選択次第です。

なお、個人(対人)リーディングにおいては、私は主に心理次元を採用しています。

このように、次元の階段を登り降りしながら、タロットは扱うことができるのです。

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