まじめさと不真面目さ

この現実世界は、ふたつの表現・エネルギー・状態など、いわゆる二元の、対立とも対比とも取れるふたつの違いで成り立っています。

従って、どうしても矛盾や葛藤、間に立つ悩みなどに苛まされることになります。

物事にはすべて理由があると考えると、現実世界が二元対立の表現でできているのなら、それを経験することが、私たちがこの世界にいる理由と考えることもできます。

つまりは、葛藤や悩みために生きるようなものです。(笑)

一方、ふたつの間の違いがあるというのは、確かにその間になって悩むことにはなるでしょうが、またそれにより、違いを知るということもできます。

禅問答のような話になりますが、「同じを知るために違いを知る」こともあるのです。

さらに、違いがあるからこそ、現実(の世界)では自分の立ち位置、スタイル、活かし方を知る(経験する)ことができます。(つまりは個性を知ることができます)

人と違って落ち込むことはあっても、反対に自分でしかできないこととか、この違いがあるからこそ「自分」でいられる、違いこそが自分であり、自らの励みになる、ということもあります。

個性」はつまるところ、バラエティ、多様さになりますので、違いこそが、たくさんの楽しみを味わえる世界にもなっているのです。

一方、人は共通点や同じ部分に共感することができ、癒されもするのですが、まったく自分と同じ人に励まされたり、慰められたりしても、実は気持ち悪いというか、心に響かないでしょう。

自分とは違う部分があるからこそ、その同じところに共感し、惹かれ、癒しを得るのです。

初めての外国で不安になっていた時、日本人に会ってほっとするみたいな感じです。周囲が外国人という異質な状況であるからこそ、同質が際だつのです。

ということで、結局、違いを体験しつつも、同じであることや、もっと簡単な言葉でいうと、全体の「愛」を知るということに、私たちの生きる意味のひとつがあると考えられます。

そこでその「違い」ですが、例えば、まじめな人と不真面目な人という括りがあります。

日本人の傾向としてルールや規則を守ったり、人のために頑張りすぎたりする傾向があるので、そういう意味での「まじめさの感じ」がある人が、最近はよくないように言われることがあります。

いわく、もっと気軽になってとか、ラフに考えればいいよとか、不真面目なほうが楽になって、周囲とも調和してくるからとかですね。

何事も行きすぎは問題ですから、確かにそれは一理あるでしょう。まじめ過ぎてうつになったり、体を壊したり、ネガティブな固まりになったりするのは問題です。

自分がアンバランスだからこそ、周囲もアンバランスな環境や人になっていると言えることもあります。

しかし、まじめな人は「まじめさ」という個性(違い)があるのも事実です。一種の天分の傾向みたいなものです。

これを無理に変えようとしても、また文字通り無理が生じ、壊れやすくなります。まじめさが悪いのではなく、自己の配分(バランスと認識、自己の尊重と愛の不足)に問題があるのです。

反対に不真面目と思われる人も、そういうアバウトで行動的なところが天分の個性でもあるのですら、細かくなろうとか、きっちりしようとかしすぎると、苦しくなるのも当然です。

それぞれのバランスは、それぞれの中のバランスであり、全員が同じ要素でもって、50対50のように当分に計測されるようなバランスではないのです。

Aさんにとっては、まじめさとラフさの比率が70対30でバランスされる場合もあれば、Bさんでは、まじめさ20、ラフさ80でもバランスなのです。

それととても重要なことがあります。

人の中には反転した要素があります。それは実は表よりも強いエネルギーを持つことがあるのです。

いわば表(表の個性)に見られるのは表面積が大きく、裏のものは面積は小さくても密度が濃いという感じです。

表がまじめな人は、実はとてもいい加減な部分が濃くあります。逆に表がいい加減に見える人の中には、非常にこだわったまじめな部分が存在しています。

その裏の部分はデリケートであり、下手に刺激すると、どちらの人にとっても、人間関係から自身の存在さえ危うくなることがあります。

しかしエネルギー密度が濃い部分なので、うまく活用すると、大きな変容を起こしたり、相手や社会にすばらしい影響を与えたりすることがあります。

本当はそちち(裏)のほうが、本人とっては本質であり、表は現実社会での役割・影みたいなものです。

だからまじめそうな人を見れば、本当はいい加減な人なんだと思い、不真面目そうな人は、すごくまじめな本質を持つ人なんだと思えば、意外に人を理解できることがあるのです。

ただ普通(現実表現で)は、まじめな人はやはりいろいろときっちりしていてまじめであり、不真面目でラフな人は、大胆かもしれないけれど、いい加減なところも多いということになります。

そうしたようにこの世はできており、皆がまったくすべて同じのコピーロボット人間であっては、動きも感情も色も出ない世界となります。

そして自分と人の違いに感情的になりすぎることと、下手に感情を殺したり、抑圧して愛を語ったりして取り繕うとすると、それは「現実によって操られた人」ということにになります。

重要なのは、違いや感情を楽しみながら、冷静に統合を志向(思考)していくことです。

ふたつの違いやエネルギーが統合すると、それは現実次元を超越する瞬間になりますから、統合は次元転移のチャンスになります。

マルセイユタロットにはそのようなことが描かれているのです。

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