いい先生、悪い先生
物事を人に教わる時、当然、それを教えてくれる先生がいます。
世の中に、いい先生か悪い先生かを選んだり、判別したりする話がたくさんあります。
しかし、その基準となるものは、結局、教わるほうが決めていると言ってもよいのです。
要するに、自分にとって「いい」と思えば「いい先生」であり、「悪い」と思えば「悪い先生」ということです。(笑)
では、自分が先生の良し悪しを決めているとして、その決める自分の基準はどうかということです。
何があなたの良し悪しと判断する元となっているのか、と言い換えてもよいでしょう。
すると、意外にも、学びのことだけではなく、人生全般における、今のあなたの判断基準があることに気づくかもしれません。
いわば、それはあなたの「いい・悪い」を決める「価値観」です。
ただ、価値観も段階や次元によって変化しますので、学びという分野に限れば、あなたの大元の価値観が基準になるとはいえ、その価値観は微妙に変化していることもあります。
例えば、全体的に精神性重視としているあなたでも、こと、お金の投資の方法を具体的に学ぶとなれば、投資効果や効率をやはり価値の優先順位に考えたくなるでしょう。
教わることで、あなたが何を教わりたいか、学びたいかによって、あなたの価値判断も変わり、従って、先生に対する良し悪しの評価も変化するわけです。
前は悪いと思っていた先生でも、今はよくなっていると思う場合もあるわけで、当然反対のこともあります。
ということで、先生への判断とは限りませんが、人への評価というものは、何を基準・価値観としているかによって変わってくることなのです。
一般的倫理観と法律によって決められる基準で悪い人でも、近しい人、家族的に見ればよい人となるかもしれません。
ここではタロットの話が中心ですから、今回の記事は、ある意味、タロットの先生選びと評価という話にも置き換えられます。
人格的におかしい、問題だと思っている先生でも、とても高度な技術と知識を教えてくれる先生もいます。(こういうタロットを扱うような世界は普通ではない人が多いですし(苦笑))
また、人格的によい人でも、技術や知識はまだ途上、中途半端という方もいらっしゃいます。
さらには、自分の求める知識とか考えとは大きく異なっている場合(価値観の相違)、その先生自身に問題はなくても(と言いますか、その先生は単に個性でもって自分の表現をされているに過ぎませんが)、受講生、教わる方としては、違和感を覚えて「あの先生はダメ」と判断していることもあります。
マルセイユタロットには「法皇」という、教えること・伝えることを象徴しているカードがあり、その絵柄には「教える法皇」と「伝えられる弟子・聴衆たち」が描写されています。
この両者の立ち位置は当然違いますし、それがまさに様々な「違い」「段階」「階層」を象徴しています。
しかし、ここでは詳しく述べませんが、細かく絵柄を見ていると、「法皇」と「弟子」が重なる部分もあるのです。
それが両者の、レベルは違えど、目指すところや目的・本質は同じというような共感性を示唆します。
ここがまったくかけ離れていると、カードはブロックやアンバランス性を示すような形で現れます。
また、この「法皇」と同じ「5」という数を持つ、マルセイユタロットの「悪魔」は、カリスマ的な魅力あふれる人物を表し、そうした特徴が強く出過ぎると、教え・教えられるような関係が、教えられるほうがロープでつながれたものになることを示しています。
これは教えるほうの「悪魔」が悪いというより、つながれてしまうくらい魅了されすぎてしまって、依存的体質になる教えられる側、聴衆のほうが問題といったほうがいいでしょう。
「法皇」にしても、「悪魔」にしても、提供する側、教える側の問題も確かにあるとはいえ、大体は教えられる側、受け取る側の問題、あるいは両者の食い違い、価値観の相違であることが多いわけです。
ということで、学びを受ける側からすると、先生の伝える「ここ(技術や知識など具体性)を学ぶ」という割り切った学び方か、先生の目指す、あるいは伝えている「本質に共感する(精神性や総合性)から学ぶ」というものか、ふたつの方向性があると思います。
もちろん両方とも含まれることもありますが、「すべてがすばらしい」と手放しで先生を評価していたら、それは「悪魔」のカードの象徴として、依存することにもなりかねませんから、尊敬し過ぎるようになっている時は注意してください。
先生をネタに笑えるくらいがいいですし、先生も時には笑ってもらえるくらい(それを怒らず、楽しめる)でいいのだと思います。(もちろん最低限の敬意もない軽蔑だと、先生から怒られたり、避けられたりしても仕方ないでしょうが)
マルセイユタロットの「法皇」にいる弟子達も、やがて自立し、最終的に自ら覚醒するようになることは、ほかのカードで示されていることです。
導きは必要ですが、最後は独立独歩なのです。
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