「月」と「太陽」 人格の統合

マルセイユタロットには、二元で表されるエネルギーとでもいうべきものを、ひとつに統合していく過程が描かれています。

これによると、統合の前には必ず分離や葛藤、あるいは解体や破壊が行われことになっています。

これは錬金術(物質的に「金」を作るということだけではなく、霊的に最高度の状態に達するということでもあります)に示唆されていることです。

そうして人は霊的に完成するというわけです。

ただ、霊的なとか、大宇宙とか悟りに向かって、とかになると、どうもエソテリックで、特別な人しかできないみたいな印象になります。

ということで、実際には心理・メンタル(思考と感情)レベルや次元に置き換えて考えると、実用的かつ、理解もしやすくなります。

さて、この二元、ふたつのエネルギーを、もっとも大きな意味でマルセイユタロットのカードとして象徴しているのは、「月」と「太陽」だと考えられます。

「月」はそのふたつの分離を示し、「太陽」は統合を象徴します。

数においても、「月」は18であり、「太陽」は19であるので、18の過程(分離や葛藤)を経て、19(統合)に向かうと見ることもできます。

私たちの精神や実際においても、このふたつの過程は常に現れ、言い方を換えれば、破壊と創造(その逆の創造と破壊)が繰り返され、私たちの内面と外面、多重な部分は統合され、成長していくものと考えられます。

ここでテーマを、自分の中の精神(心理)的な人格統合ということにしますと、「月」と「太陽」は、やはりその分離と統合を示すと表現できます。

人は自分一人の中にも、たくさんの人格・パーソナリティを抱えています。いわば個性の中の個性です。

ところが、これはほかの人にも同様にあり、それがかぶったり、まったく違うものとして衝突したりと、常に自分の中のたくさんの人格・個性が刺激を受けるようになっています。

その都度、「月」で象徴されるような隠れた部分において、不安や葛藤、何かザワザワとした感情が出るわけです。(これは「月」のカードの水たまりやザリガニでも象徴されます)

一方、誰でも人から愛されたい、誰かを愛したいという思いがあり、そのため人と交流を持ち、友人や恋人というつきあいにも発展する、ひとつの要因にもなります。

それは、他者と融合したいという気持ちとも言え、つまるところ、実は自分自身のたくさんある人格の融合・完全に向かう完成を目指しているとも言えるのです。

結局、人から愛されたい、人を愛したいというのも、自分によって自分が愛されたい、自分を愛したいということにつながります。

ということで、「太陽」の初期段階では、自分と同じ部分・共通部分・合う部分・理解できる部分を他人に見ることによって、まず融合を図ろうとします。

しかし、深く融合しようと思えば思うほど、他人と自分の違いが見えてきます。

そこに違和感を持ち始めると、「月」の段階へ戻り、分離と葛藤が、特に感情的に大きくなってきます。

どちら(「月」「太陽」)も心理的には投影と無関係ではありませんが、いずれにしても、自分と他人という関係で、親近感と疎遠感(違和感)のふたつを感じるわけです。

親近感を抱く部分は、強く自分に出ている人格・パーソナリティーであり、自分で好ましく思っているところ、自分で自分を愛している部分と言えます。

逆に他人に違和感や疎遠感を覚えるところは、自分の中でも強く分離されている人格であったり、受け入れていなかったりする影(シャドー)であることが多いのです。自分の中で愛していない自分の部分とも言えるでしょう。

それらは、ほかのタロットカードで象徴されている部分でもあるので、客観的に見たい場合は、カードの象徴を活用するとよいわけです。

いわば、「月」の二匹の犬と、「太陽」の二人の人物は、ほかのカードによって表現されるネガとポジのような関係になっています。

こうして、人との出会いや交流の中で、私たちは自分の中にあるたくさんの人格や状態・エネルギーを発見し、統合していくことになります。

最初は融合や融和を見つつも、混乱や葛藤による分離を迎え、最終的には統合(融和段階を超えたもの)に導かれるということです。

よく、好きな人だけつきあえばいいとか、考えが同じ人だけと交流するみたいな人がいますが、確かにわざわざ合わない難しい人と積極的に交流を持つ必要はないとはいえ、違和感を覚えたり、自分とは違う考えの人をまったく無視するのは、せっかくの統合チャンスをふいにすることにもなるので、何でも極端は問題だと言えます。

合う人にの中には違う部分を見、合わない人には、それでも同じ部分を見ることで、自分の中のアンバランスなパーソナリティーがバランス化してきます。

とはいえ、これは無理に他人と仲良くしなければならないとか、好きな人と距離を置かなければならいとうことではなく、あくまで自分の人格的統合と成長の意味において考え見ていくものであり、人とのつきあい方自体を示唆するものではないのです。

たくさんの人がいるからこそ、傷つけられることもあり、怒りを覚えたり、悲しくもなったりします。また反対に癒されたり、愛を感じたり、楽しい気持ちになったりもします。

だから、人によっての傷は、人によって癒されることもあると思って、何でも一人で抱え込むことはないでしょう。

それが「自分の世界であって、他人の世界でもある」この世の仕組みと言えます。

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