聖性と俗性 ふたつの「勝利」
リオデジャネイロでのオリンピック、日本(選手)の金メダルも出て盛り上がって来ましたね。
今の近代オリンピックも面白いですが、古代オリンピックも、調べてみますと、なかなか興味深いものがあります。
ポリスと言われるギリシアの小国家が、争いを繰り返していた中で、オリンピックの時だけは停戦していたところや、男性が裸で競技をしていたところなど、その根本には「神」を前提にした神聖なる思いがあったと推測されます。
いわば、人間的なものと神的なもの、言い換えれば、通常の人間ベースの生活と、理想・イデアたる完全な神聖さとの相克と融合が、そこにはあったと想像できます。
日常で悩んだり、いがみ合ったり、欲求のままに行動してしまったりするという、まさに人間くさい部分があるのが私たちではあるものの、神を想定して、その神聖さにふれること、自身の神性なる部分を想起することで、より個人を高め、全体としても崇高な状態へと成長・移行することができると考えられます。
いわば、俗性を聖性によって浄化していくようなことでもあるのです。
古代オリンピックで言えば、ただ勝ちさえすればよいというのではなく、あるルールに基づき、美しく競技し、それでも勝つことが重要だったわけです。
この場合、勝つというのは相手(人間)を打ち負かすのではなく、神と融合する自分になる、神に近づく聖性を獲得するということに意味と価値があったように思います。別の言い方をすれば、自身の人間性部分に対する勝利です。(マルセイユタロットの「戦車」の深いところと通じます)
マルセイユタロットでは、カードの人物が裸で描かれているものがありますが、これも伝統から見れば「神」を象徴しているわけで、そのカードたちが、タロット全体の構成としてどう配置されているのかを見れば、マルセイユタロットが一種の神性への回帰、神性(神聖さでもある)にふれるための図として、意図されているのがわかります。
さて、この、「人の俗性と聖性」は、人の中に二面性があるということでもあり、端的に言えば悪魔性と天使性、神と悪魔、低次と高次なとで言い表されます。
しかし、これを単純によい面と悪い面としてしまうと、幼稚な発想となってしまいます。
人間である限り、肉体を持ち、俗なる生活と欲求を持って生きるのは当たり前です。
もしそれがまったくなかったとすれば、おそらく生きるエネルギーや活力、新しいものを生み出したり、工夫したりする創造性さえ失うことになるでしょう。
俗であるから個人として体験できる感情や境地があり、それはバラエティに富み、非常に面白いもの(体験)と言えます。
しかし、俗や個人の欲求ばかりが重視される世界、もう少しましな言い方をすれば、個人の生活・現実に目を向け続けなければならい状態が続く世界では、次第に私たちはエネルギーを失い、オートマチックな安楽の道か、自己の欲求の満足を求め、ますますエゴを肥大化させるかの道に進むことが多くなります。
さきほど、俗なる欲求の世界は創造性もあると言いましたが、創造性のためには、そもそも創造のもととなるエネルギーを補充しないと発動しません。
そのための神、現実や俗性を超越したものとの接触となります。つまりは聖性との交流です。
日本や世界の祭りも、「祀り」の意味として、そういう面があったと考えられます。祭りによって神と交流し、俗から聖へとエネルギーを変換浄化させ、新たな力を手に入れたのでしょう。
現代は、この俗と聖のサイクルが混濁してしまい、わけがわからない状態となっています。
そのため、生き方についても悩み、俗やエゴの追求、または現実の生活重視というものと、夢や理想、ワクワクみたいなことでの生き方との狭間に立たされ、どう選択すればよいのか混乱する人が多くなっているようです。
言ってしまえば、聖なるものが俗に取り込まれ、あるいは利用され、混同・誤解されているところに問題があるわけです。
聖性は現実の、特に物質的な充実とか、個人のエゴの満足ということとは違います。
俗に傾きすぎた自分を聖性によって回復させていけば、結果というより、過程そのものに幸福感が出てくるでしょう。
つまり、人生において、一連のサイクルのような魂の永続性や、人生の波によって起こる波動力(まるで潮力発電のようなもの)のすごさに気づくことになるのです。
波はあるものの、そこに貫かれている一本の芯のようなものを発見する視点と言ってもよいでしょう。
それは二元、聖と俗の繰り返しの波の間、または超越したところに存在しているのです。
私たちは俗で生きる時、他人への勝利(人より優れていること)を望み、行動しますが、聖性で生きる時は、自身の人間性の超克、神性の勝利(低次と高次の統合)を魂は希求し、美しく生きようとします。
言ってみれば、「勝利」には二種類あるということです。
これはどちらがいいということではないのです。そういう二面で生きるのが私たちです。
ただ、最近は、あまりにも聖を俗に属させているような生き方の人も多く、個人的にそれは美しくないと思えるのです。
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