エッジボールに「運命の輪」

五輪の卓球、日本、男女とも大活躍ですね。

卓球では、台の端(エッジ)に当たって、ボールが極端に変化することがあります。(エッジボール)

皆さんも、この度の五輪の試合で何度か目撃したことでしょう。

プレーしている選手、その選手を応援している側にとっては、エッジボールが自分の得点になるかどうかで、いわゆる「運・不運」を思います。

エッジボール自体は、ただ玉が台の端に当たっただけのことです。

そのことをルール上、当たって返すことができなければ、自分の得点にはならず、相手の得点になるという話です。

しかし、ボールが、端・エッジに当たるということのまれさと、当たったボールの予測不可能な動きで、そこに運の介在があるというように感じるわけです。

ただ、このエッジボールの運・不運も、対立的(相対的)な見方をしている場合のみ成立します。

対立的というのは、自分と相手という、何らかのふたつの競争や比較があるということで、自分にとってはの不運は相手にとっての幸運になり、自分にとっての幸運は相手にとっての不運とみなされます。

どちらの選手にも肩入れせず、中立に見ていたり、競技そのものに興味がない状態であれば、エッジボールに不思議さは感じても、そこに運・不運を見ることはないでしょう。

つまり、運・不運(の思考・感情)は、対立的、二元的状態で発生していることが多いということなのです。

もうひとつ言えば、自分を中心とした何かのストーリー・物語があれば、そこに運・不運の見方は出てくると言えます。

もう少し踏み込んだ言い方をすれば、運・不運は、物語の波(起伏)によって作られるということです。

卓球の試合で例えれば、ずっとポイントを取られ続けていた状態で、たまたまエッジボールが当たり、それが少ない得点のひとつだったとなれば、そのエッジボールに、選手自身も、応援しているほとんどの人も、得点したからと言って特別な「幸運事」とは思わないでしょう。(ただのラッキーという意味では見るかもしれませんが)

非常にハラハラドキドキで、シーソーゲームのような展開にある試合、もしくは選手の背景として、ずっと努力してきたのだとか、病気や試練から立ち直ってきたとか、メダルが近いとか、あと一点で勝つとか、そういうような起伏ある「スト-リー・物語」があってこそ、エッジホールによる得点(失点)も、幸運とか不運とかで色づけされていくのです。

これらのことを表しているのは、マルセイユタロットでは、「運命の輪」となります。

この「二匹」の違う動物たちによる回転的な起伏が波になっている状態で、まさに「運」(幸運・不運)と呼ばれるものが生成されているのがわかります。

さきほど、エッジボールの運・不運を感じない人がいる話をしました。

それはどちらにもつかない人であり、試合に興味のない人でした。

この状態や境地を、どちらかに傾いてしまった人が得るには、傾きを是正、あるいは等しく平均化しなくてはならず、それは単純に言えば、まず相手の立場になって見ることと言えます。

さらに、長期的な視点か(時間概念を使って平均化)、俯瞰した視点(空間的統合・価値観の変移による視点)で観察することで、試合の結果・勝ち負けよりも、試合そのものを楽しむような見方になります。

いわばプロセスと結果を同等に見るような方法です。

逆に言うと、どちらかに肩入れしたり、結果にこだわり過ぎる見方をすれば、運・不運というものが色濃く分けられ、それ(その小さき世界観)に支配されてしまう(こだわって抜けきれない、執着する)ことになります。

相手の立場になったり、俯瞰したりするというのは、図形的にはこちらから見るのと同時に、逆方向(相手から見た視線)からも見たり、一段上の統合した地点から見たりすることであり、それは結局、三角形になったり、半円が円になって(あるいは二次元的円が)、さらに回転して球になるようなイメージに近くなります。

「運命の輪」でいうと、スフィンクス(輪の上にいる複合獣)の位置が大事で、こにいると、二匹によって回されている輪の回転が俯瞰でき、さらに、その回転方向は(二匹の動物の回転方向とは)別の可能性があることが意識できます。

だから、「運命の輪」では、輪のスポーク(車輪の中心から出ている棒、輻)が実は非常に重要です。スポークの方向性が球的なものを示唆しているからです。

「運命の輪」は、文字通り、運を意識するカードと言えますが、それ(運)は実は相対的なものから生み出されていることに気づき、低次の運命論・吉凶的視点から私たちを脱出させるための示唆を与えるものなのです。

まあ、しかし、先述したように、ストーリーと起伏によって運・不運は明確さを増しますから、個人の物語(人生)をドラマティックに演出する効果としては、運は意識されてもよいものとなるでしょう。

卓球で言えば、メダルや勝ち負けを意識して、どちらかを応援する見方をすれば、それだけ興奮や感動はでき、エッジボールにも運命の神様が宿っているように見えるということです。

そう、つまりは「運」は現実次元における演出装置なのです。しかも、真には、自分がその演出をしている(「運命の輪」を回している)ところがまた面白いところです。

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