タロットを学ぶ、二つの方向性
タロットを学ぶということは、おそらく一般的にはタロットで占いやリーデイングができる技術を学ぶということが多いと思います。
それも自分向きではなく、人に対して行うものというイメージでしょう。
そもそも客観的には、自分占いや自己リーデイングは、対人的にする方法と同じやり方ではできにくいものです。(ですから、自己リーデイングには、違う方法のほうがよいと言えます)
私の講座でも、タロットによるリーディング技法はもちろんお伝えしています。それが、いわゆるタロットの主要な活用法であるのは間違いないからです。
一方、「タロットを学ぶ」ということは、占いやリーディングを習うということだけを意味するものではありません。
タロットの活用には細かく分けるといろいろなものがあるのですが、それらを総合して言うのなら、「タロットをあらゆるものの象徴として扱う(使う)方法」と例えられるでしょう。
リーデイングや占いにおいても、結局はタロットカードを象徴として見ることで成立しているのですが、ここでいう「象徴による活用」というのは、リーデイングの時のものとは異なります。
タロットリーデイングは、クライアントや自分の心理的・潜在的なものをタロットに象徴させて読み解くことなので、どちらかといえば、とても象徴の範囲が個別的なものになります。より現実的・生活的と言えばいいでしょうか。
一方、リーディングから離れた象徴となると、もっと大きなものになり、言い換えれば、宇宙の構造を知り、自己や現実世界にもそれが流れている(基礎構造として同じでるあ)ことを洞察していくというものになります。
つまるところ、大いなるものと「自分」というものを合一させるような意識、統合的・総合的・霊的とも表現できる自己を認識していく、成長していくということになります。
古代からの伝統で言えば、それは神秘学(行)的なニュアンスであり、マルセイユタロットの根幹に流れる秘伝でもあります。要するに、本来の意味での「自己活用のタロット」だということです。
普通で語られるところの人(自分も含む)の「現実生活」を充実したり、援助したりする方向性がリーディングや占いでのタロット活用であり、全体性の象徴としてのタロットを意識し、自己に深く入っていく方向性(しかしそれはマクロとして宇宙の方向性と同じ)が、現実を超越する方向性での自己活用のタロットと言えましょう。
現実になじむ(充実感を得る)か、そこから離れいく(分離して最終的に統合させる)ことを目指すのかの違いです。
例えば「手品師」(一般のタロットでは「魔術師」なとど呼ばれる、通常「1」の数を持つ大アルカナ)が出れば、その人の就いている仕事か、働き方、何かを始めるための思いのようなものが象徴されます。
しかし自己活用の象徴として見ると、「仕事」とか「生活のスタート」とかという現実的な事象・意味からはずれ、四大元素の最初の扱いと認識、分離と統合の第一意識の目覚めというようなテーマが現れてきます。(ですから「魔術師」的にもなってくるのです、ウェイト版は魔術を直接描き、マルセイユ版は裏にそれを隠します)
現実対応のリーディング中心にタロットを活用するか、自己の洞察力・認識を次元転移して深めていくか、どちらを志向するかは学ぶ本人の選択であり、また教える先生の方向性にもよります。
もちろん両方をやっていくことも可能ですが、きちんとした扱いと目的の区別はいります。多くのタロット学習者は、これらを混同しています。
リーディングや占いはメソッド化され、たくさんの事例も世に出ていますので、学びやすく、自分がタロットを活用しているという実感も得やすいです。
しかも、対人的に使用しますので、人からも評価や感謝を述べられることもあり、使う本人の感情的満足、幸福感も覚えやすいものです。
ところが、タロットを大きな象徴として自己活用していく向きには、西洋魔法(魔術)の組織や団体でのものは別として、なかなか方法が具体化されておらず、先生や師はあっても、最終的には、自分でタロットの表す絵柄の象徴性から悟って行かねばなりません。
さらにこちらの方向性は、特別な力を得たり、現実を自分にとって都合のいいように変えたりするためにタロットを活用するものではありませんから、効果や目に見えての変化がわかりづらく、普通の人間の感覚としての感情的満足も得にくいものです。
言ってみれば、現実的な世界観をメインとすれば、「裏街道をいつも歩いている」(笑)ようなものです。
それは時に孤独でつらい作業になることもあります。常識や現実(一般)の世界観とずれていることも多いわけですから。
しかし、私自身やってきて思うのは、決して孤独なものでもなく、つらいことでもないのだということです。
同志や同じ傾向を持つ人(場所・事柄)は響き合い、自分が孤独な時に、少数ではありますが、そういう人や場所は現れます。
タロットの象徴による自己や世界の洞察は、苦しくもありますが、ひとつひとつの個々人の段階を過ぎていく時、それはかなりの楽しさもあります。それはまたリーディングの喜びとは違ったものです。
結局、マルセイユタロットは自分の真心、神性に応えるものと言えます。
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