束縛と自由の関係性
今日、マルセイユタロットから浮かんできたものは、人の関係性における自由と束縛というものでした。
不思議な言い方になりますが、束縛の中に自由があり、自由の中に束縛があるというメッセージです。
マルセイユタロットの大アルカナは、意識の元型や、人の成長、あらゆることの象徴を示唆していますが、そうやって改めて大アルカナを眺めてみると、単独の人物が強調されているものと、複数の人物(あるいは動物)たちが描かれているものとに大別されることに気がつきます。
これは、様々な見方ができますが、私たちは精神においても現実においても、一人の時と、ほかの人たち(存在)と関わっている時とが状況としてあることが、カードを通して描かれるように感じます。
精神(心)でそういうことがあるのか?といぶかる人もいるでしょうが、心の中での会話やイメージで、自分一人の時と、他人や別の存在がイメージされる時のふたつは、おそらく誰もが経験しているはずです。
さて、そうした中で、ほかの人や複数の人(存在)との関係性を取り上げると、これも並行関係と縦の関係とに分かれます。
並行関係というのは、同じ立場や友人のような関係であり、縦の関係とは何らかの上下関係、指導・支配・ランク・地位・経験・年齢等によって作られてくるものです。
一般的には並行関係が自由で、縦関係は不自由で束縛されているように思われがちですが、一概にそうとも言えません。
考えてもみれば、特に上下関係でもない友人やグループとの間でも、私たちは結構悩みます。
逆に、指導してくれたり、守ってくれたりする上の人がいてくれるおかげで、自由にふるまえることができる場合もあります。
そう、ここが今日のポイントです。
「自由」について考える時、それ(その自由)はまったくのフリー、無法、何も束縛のない状態であることはほぼなく、あなたの自覚・無自覚に関係なく、誰かに守られていたり、障害が除かれていたりして、何らかの設定の範囲において自由が与えられていると見ることも重要です。
あなたが自由に(だと思って)活動できているのも、親やパートナー、地域や社会、国、その他もろもろの法律・制度などのおかげかもしれないのです。
それは見ようによっては、あなたを束縛しているものでもあります。
そもそも、自分という存在も、この現実世界においては、他人によって規定されているものです。
ほかの人の存在によってはじめて、自分という存在が区別され(パーソナリティとして認識される)、成り立っていることを思うと、自分一人だけの完全自由などないのがわかります。
スピリチュアル的な言い方をすれば、完全自由とは個別の世界にはなく、全体と個、つまり自分と相手、内と外が統合され、すべては自分であり、また他人であるという、分けられない不二のような不思議な感覚にならなければ叶わないことが、論理的に想像できます。
逆に言えば、その次元、あるいはグループ、個別の世界別に、自由と同時に同程度の束縛(あるルールに縛られ、守られた自由)があるということです。束縛はまた責任と言い換えてもよいでしょう。
そして、さらに付け加えるならば、やはり自由の獲得の大きさ段階が、個人の成長にも関係していることです。
自由と思う気持ちが広がれば、それだけ大きな次元の束縛やルールが見えてきます。いわば個人の正義(何かを良い・悪いと評価する価値観)との問題にも関連します。
昨日まで、あのことが許せないと思っていたことが、何か肩の力が抜け、「別にどっちでもいい」「まったくもう気にならない」「むしろ、それ(悪い・嫌だと思っていたこと)にも良さがある」・・・というような感覚になれば、あなたの次元はひとつ上昇し、自由度が増したと言えるでしょう。
新しい次元におけるルールになじむと、逆に今まで自分のいた次元(世界)のルールが何と幼いことか、あるいは細かなものだったかに気づかされます。自分を縛り、同時に守ってくれていた「束縛」「縄」「箱」を自覚するのです。
グノーシス的な話になりますが、結局、私たちは巨大なある女神の子宮の中にいて、その子宮膜が何重にも保護シールドとして私たちに覆い被さっていると見ることができます。それが束縛や牢獄としても、時に感じるわけです。
この何重もの子宮で、その都度生まれ、再生してくるのが私たち人間です。
巨大な女神は、私たちの成長を温かく見守ってくれているのか、はたまた、我が子かわいしの過保護のママ(笑)として、自分の中から出さないのか、それを想像してみるのも面白いです。
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