ソウルメイトに出会わない幸せ

恋愛やパートナーシップの問題で、理想のパートナーや、スピリチュアル的なソウルメイト、ツインソウルというような話題が出ることがあります。

人生で最高の、そして私とこの人とが、ほかでは考えられない今生でのベストカップル、一生のパートナーという人がいれば、ロマンとしては、すばらしいことだと思います。

そういう人を想像すると、まるでお姫様と王子様のハッピーエンドの物語のような、うっとりとして、幸せな気分に浸ってしまいますよね。

実際、そのような方と巡り合え、一生添い遂げていく、幸せな人生を送っていらっしゃる(組合せの)方もいるでしょう。

ですが、それは多数であるかといえば、残酷なようですが、あまりそういう関係の人たちを現実に見ることはありません。むしろ、そのような人たちは、実際には少数派ではないかと思います。

おかなしことを言うようですが、理想のパートナー、ソウルメイトに巡り合わない幸せもあるのだということを、今回はふれてみたいと思うのです。

ソウルメイト願望の問題のひとつには、ソウルという文字の通り、お互いがひとつの「魂」の片割れであり、だからこそ相性もよく、結び合う最高の組合せなのだという「設定」があります。

プラトンの「饗宴」にも出てくる話ですが、もともと人間は両性具有的な男女で一体の者と、ほか男男、女女で一体となっていた状態があり、それが神・ゼウスによって分断されたため、お互いに、ひとつの時だった体を求め合うのだというものがあります。

それはともかく、こうしたもともとひとつの魂、あるいは一体だったことによる幸福感を知っている者同士の片割れが、引き合い、再び一緒になる喜びを求めるという設定は、よく聞く話です。

ただ、この設定のようなことを信じてしまうと、その瞬間、「自分は片割れである」という認識が強くなります。そうでなくても、どこかに「私のことを本当に理解する、もう一人の自分ともいえる存在がいる」と考えてしまうのも、やはり同じ「片割れ」「半身」認識となるわけです。

片割れとはつまり、不完全を意味します。

自分一人でいては満たされない、不完全であるという思いが、次第に強くなって行き、それが高じると、もはや自分一人での完全性はありえないというあせりまで行き着いてしまいます。

このことは、マルセイユタロットの「恋人」カードに象徴されていると言ってもよいでしょう。また恋愛ごころとは、そうした(片割れ、半身、不完全である思いを相手との合一感で補う)衝動から生起するものとも、カードからも推測できます。

その鍵を握っているのは、恋人カードでは、上空に描かれている天使(キューピッド)ということになります。

マルセイユタロットでは、完全性は一人の人間の内にあると語ります。ただし、それを忘却し、隠された状態にあるため、不完全だと思いこまされている状態だとも示唆します。

完全性を復活させるため、私たちは人として生まれ、数々の不足、差異、違いを経験します。それは、完全性を思い出すためには、「違い」というものが必要だからだと、ひとつには考えられます。

ソウルメイトのような人であっても、また普通の恋人やパートナーであっても、さらには、友人・仲間、特別な感情もわかない義理のつきあいのような人であっても、人との関係と交流によって、私たちには実は完全性の復活(思い出し)が発動していきます。

ただ、あまりにもびったりとした関係性であると、その時点での充足感に幻惑され、そのふたりの人間関係の時だけに、合一感、統合感、完全性を感じることになり、ほかの場面での完全性を探求しようとしなくなる傾向もあります。

この現実世界は完全性を伴いながらどこまで言っても、現実感覚では個別性であり、分離したものとして表現されます。

一日が昼と夜で分かれているように、そしてずっと昼とか、ずっと夜とかの「一元」ではないように、現実は必ず二元表現によって表されている世界です。

「私たちはソウルメイト、一心同体」だと思っている関係でも、ともに空気のように生きているわけではなく、どちらも肉体を持ち、人として現実に存在しているわけですから、やはり二元から逃れることはできません。

自分たちの中で一元を味わうことはあっても、実際には「二人」という個体であり、外の世界は多様性ある個別、分離世界です。

面白いことに、ソウルメイト関係で一元を体験しても、一元たる自分たちと、そうではない(ソウルメイトに巡り合っていない人たち)という、「二元」が現れるのです。

とすると、ソウルメイトというのは、真の統合において、出会っただけでは完成していないのがわかります。極論すると、ソウルメイトは自分たちだけの切り離された統合感の世界と言えます。

ただ、一人の時の不完全性から、相手との融合感によって、本当の完全性を思い出すことができた場合、その時はソウルメイトと思えた相手を特別視することはなくなるのではないかと思います。

真の一元や統合のために、多大な貢献をしてくれる相手ではあったものの、それが達成されれば、相手は特別ではなくなる(分離てだはなく、統合、一元になるため)ということです。

ソウルメイトのような人に出会わなくても、いや出会わないからこそ、完全性を取り戻していくチャンスもまた別に増えていきます。

完全性は、つまるところ、二元分離からの統合と言えますから、それは現実において至るところで経験できます。上述したように、現実は分離の世界がだからです。

現実が分離の世界であるならば、現実を超えたり、脱出したりしなければ統合にはならないのではという理屈になりますが、確かに、グノーシス的にはそういうことになるでしょう。

では統合とは現実逃避なのかといえば、これは難しい問いですが、そうとも言えますし、そうとも言えないところです。(笑) 

現実世界は基本、二元分離ですが、一元が許されない世界でもなく、いや、正確には一元の中に二元があり、その逆でもあると考えられます。(入れ子構造のようなもの)

わかりやすく言えば、マンション全体で見れば「ひとつの建物・家」ですが、号室別に見ると、100個も部屋と家がある、「たくさんの状態」という感じです。

言わば、観点・見方・見る目(レベルの違い)によって、見えてくる状態が違うということです。

ソウルメイトのような関係で、普通は分離した状態で体験する現実世界を、助け合うかのように、生きやすくしていくことは可能だと思います。

スピリチュアル的なファンタジーで言えば、生まれる前の魂の約束で、現実世界で巡り合った時、「生きづらい世の中で、お互い助け合おう、ふたつがひとつになれば、たとえ分離した世界でも、私たちだけは統合の力を発揮できる」としたのかもしれません。

ですが、ソウルメイト幻想に過剰に入り込みすぎると、おそらくそのような存在と感じる人に出会ったとしても、ふたりの間だけの融合感の至福性はあっても、一人の時では逆に不足感、無力感(相手がいないと完全ではないという思い)も強まるでしょう。そして、出会わなければ、ますます焦燥感に駆られ、これまた不足感が増します。

「二人だと完全」という思いは、一人での完全性の追求という観点から、はずれていくこともあります。

そうすると、ある種の縛りの中から脱出することができにくくなります。

統合は、逆に言えば、分離と対立した、もうひとつの状態といえますから、人のエネルギー(人間同士)だけでなく、物質にも、精神にも、あらゆるところで分離が見られるのならば、統合のチャンスはあるわけです。

ソウルメイトのような人に出会わなくても、いや、出会わないからこそ、ほかの重要なことに気づいていくこともあり得るのです。

最後に、ひとつ、ソウルメイトはこの世(現世)で創造していくこともできるのです。

皆さん、過去とか前世にこだわり過ぎ、今生で出会った人の魂を尊重すること、そして新たに魂的にも、特別な関係にしていくことができるということを忘れています。

ひとつの魂の片割れ的な思いから抜けることができれば、魂のふれあう関係、支え合える関係として、一人だけではなく、幾人かの人を、ソウルメイトとして創造していくことができるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top