自分を中心として設定し直す。
今日、タロットを見ていますと「皇帝」や「力」のカード強く出てきました。
そして、それらから、「自らが主人公になる」ことのメッセージを受けました。
当たり前の話ですが、人は誰でも、自らの人生においては自分が主人公です。
しかし、意外にも、そのことは当たり前すぎて、かえって意識することがありません。
それどころか、いつの間にか、他人が主人公のように思ってしまう人生を歩んでいる場合もあるものです。
「いやいや、普段意識はしていなくても、自分が中心だという思いはありますよ」
ということを言う人もいらっしゃるでしょう。
けれども、どうでしょうか。
私たちは、多くの場合、他人と比較し、自分の劣っているところを気にしたり、人を羨んだりしています。
そうでなくても(人と比較する意識が強くなくても)、このあまりに複雑で巨大と思える社会と仕組みの中で、自分の役割や使命、貢献感といったものはゼロに等しい、まったく埋もれてしまっている存在(存在感のなさ)だと感じている人もいらっしゃるのではないでしょうか。
つまりは、自分が主人公ではなく、他人か、主人公そのものが不在という状態に感じているわけです。
たまに自分に中心が戻ってくることはあって、忙しく多様な社会にあっては、またすぐに自分を見失い、というか、消えてしまい、空虚な物語を演じるか、他人が主人公のストーリーに身を投じる(意識の中心が外に向かう)ことになります。
ですが、もう一度、当たり前のことを思い出し、自分の人生は自分が主役で、自分が中心としてすえられているのだと自覚することです。
自分がいなければ世の中は何も始まらないし、終わりもないし、そもそも発生すらしないのだというくらいの意識です。
なぜ、今の人たちがこのような、自分を主人公として実感しづらくなっているのかは、いろいろな理由はあると思いますが、タロット的(古代象徴的)に見れば、歪な客観性の世界観が普通となってしまったからだと言えます。
これは、占星術・天文学的に言えば、天動説から地動説に置き換わったというようなものです。
物理的に(ただ見えるものだけの観点で)観察する思考をもってすれば、確かに地球ほか、各太陽系の惑星が太陽を中心にして回っているように見えますが、象徴的・精神的な世界観では、かつては地球、つまり自分自身を中心として星や宇宙が回転していたのです。
それは昔は科学が劣っていて、肉眼で観察する範囲でしかならず、ほとんど迷信の世界に陥っていたからだと一般の方は考えるでしょうが、次元を異にした見方では、自らを中心とした天動説的な宇宙観のほうがしっくりくることもあるのです。
どちらが霊的に見た場合に正しいかというような視点とも言えるでしょう。
いずれにしても、私たちは、おそらくどこか(の時代)で自分の立ち位置と他人の立ち位置が逆転して、他人視点でしか自分というものを実感できない客観世界を確立してしまったのが、逆に自立性や自身の存在感の確かさというものを希薄にさせたのだと感じられます。
自分は確かに宇宙の中心であり、また一部でもあり、だからこそ、全体からも欠けることのできない存在自身であるという実感が、ひしひしと昔の人はあったのではないかと推測できます。
今は、単なる機会のパーツのような感覚になってしまい、もしそのパーツが壊れても、ほかから補うことができると見られ、自分などいなくてもいいとさえ考えてしまう思考様態になるのも、無理もないと言えます。
しょせん、自分など、何の特技もなく、役にも立っておらず、一部の才能のある人、成功者が目立つだけで、自分はその人たちを輝かせるコマや飾り、材料のようなもので、空しいものだという感覚です。
しかし、自分中心の世界観を回復してくると、どんな役回りにあっても、ストーリーの中心は自分にありますので、ほかは逆に自分を盛り立てる要素という感じになりす。
ここで変な客観性(つまり他人目線・常識目線)を入れてしまうと、目立つ人が主人公になり、自分の役は端役であったり、目立つ人のための補助的な役だったり、時には消滅した存在とさえなったりします。
こう考えればよいです。
映画でもドラマで、サイドストーリーとか、スピンオフ作品とかがありますよね。
それは最初の主人公とは違った人に光が当てられ、別の人が主人公になったり、たとえ同じ物語でも別の視点で描かれたりします。
そうすると、今までかっこよくて、すごいと思っていた主人公が、実は敵役にもなったり、あまり目立たないことにもなったりするのです。
そう、結局は、実はどにもない、自分が勝手に想像して創り上げた他人目線や社会的評価みたいなものを取り入れて、幻想の客観性とも言えるもの(それは時にリアリティを持つこともありますが)で自分を見ているため、自分は主人公にならず、なってもたまにであり、ほとんど脇役のままになるのです。
というより、この場合、主人公は、その「怪しい客観性自体が人格をもったような存在」だと言えます。それは物語への観客的視点ではあって、演じている役者自身の視点ではないのです。
あなたの人生劇場の主役はあなた自身であり、演じているあなた(役者自身)なのです。
そちら側(役者)の視点を中心としてもってくることで、存在の評価を自分のほうに取り戻すことができます。
どんな立場や役でも、自分が主人公なのですから、たとえ他人のほうが客観的視点ではすごく見えたとしても、それはあくまであなた自身のストーリーを盛り上げるための脇役でしかありません。
こういう視点に立てば、目の前の今のことに集中しやすくもなるでしょう。
つまらない仕事や役をやらせているのではなく、それ(自分と、自分がやっていることそのもの)がドラマのメインであり、主役だと思えば、誰でもドラマチックなものになるのです。
つまるところ、自分を中心として、誰もが何もかもが、あなたの舞台を輝かせるための装置・設定として演出されており、どれひとつ欠けても、そのシーンは出来上がらないことを思えば、「すばらしきかな我が人生」という思いに、少しはなってくるでしょう。
自分を中心にした感覚を取り戻すには、流される環境(多忙でオートマチックに動く環境)や騒々しいところでは難しく、静かなところで、周りには何もないようなところが望ましいです。
そういう意味では、瞑想やリトリートなども効果があるでしょう。
現代は電気で星が見えにくくなっているのも、自分の中心軸感覚を失う要因のひとつなので、星がきれいにたくさん見える場所で、宇宙と自分を想像し、自らが中心だと意識してみるのもよいでしょう。
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