「罠」と「出口」として見るカードの読み方。
タロットでは、カードをそれぞれを吉凶的に見る人が多いようです。
吉凶的に見るというのは、あるカードはいいカード(吉カード)、そしてあるカードは悪いカード(凶カード)と判断する見方です。
これには、いいところと悪いところがあります。
よいところは、誰でもカードで占いがしやすいという面で、いわばおみくじのようなものですから、出たカードで問いにおける良し悪し、状況判断が一目瞭然です。
ですから、イエス・ノーとか、いいか悪いかなど、何かをを決めること、向き不向き、運不運のレベルで、何かをはっきりさせたい時にはよい見方と言えます。
しかし反面、カードにあらかじめ吉凶の意味を決めていますので、物事の両面性を推し量ることができず、複雑で統合的な見方を獲得することが難しくなります。
簡単に言えば、今の(よい悪いを決めている)価値判断基準から抜け出ることができにくいということで、言い方を換えれば、今のレベルにおいての選択ごとでしか、物事の処理や解決ができない意味にもなります。
これは、もっと上の視点や、本質的なものへの視点への移行が遠ざけられることになり、総合的な自己の成長という意味では、あまりよくないと考えられます。
そのため、私自身は、カードを吉凶的に見るやり方は採っていません。
ですが、カードを単純に吉凶的に見るのことではないものの、少し似たような感じのものとして、カードを二つの面から読む方法もあります。
これはカートを吉凶的に見るやり方と、カードをフラットに見るやり方との、中間的な方法と言えましょう。
それはカードそれぞれに、物事の出口(解決)とトラップ(罠)があると考える方法です。
わかりやすく言えば、カードには、ポジティブな面とネガティブに考えられる面とのふたつあるという読み方です。
まあ、これは別に珍しくもない方法で、吉凶的にカードを見るやり方でも、たとえば凶カードとされているものの中にも、ポジション(正逆やスプレッドの位置など)によっては反対によい意味になることもあるとか、ある状況では、凶が吉に転じるとか、読むこともあります。
ただ、それとは少しニュアンスが異なるのです。
例えば、「運命の輪」というカードがあります。
普通はその名の通り、運命や流れがうまく回っている、乗っているというような読み方がポジティブな面では出ますが、もう一面から見ますと、悪い流れにはまっている、自分ではわからないシステム(輪)の中にはめこまれ、脱出ができない状態(あるシステムに気づいていない状態)と読むこともできるのです。
いいことを逆に読めばいいだけでは?と思うかもしれませんが、確かにそうなのですが、それもやや、この読み方の本質とは違います。
特にネガティブ面を見る場合は、「トラップ」「罠」と見ますので、いわば、私たちが動物のように自然の野山を駆け回っていても(つまり生活や人生を送っていても)、そこかしこにトラップが仕掛けられており、それは自分では見えないことが多く、いつのまにかそのトラップに引っかかってしまい、それが問題状況やうまく行かないことの要因となっているとし、そのトラップ・罠がカードそれぞれで象徴されているというものです。
なお、トラップは、「人が作り出すもの」と「自分が作り出すもの」、さらに環境や社会として「一種の世界が作り出しているもの」があります。
また一例を出すと、「法皇」というカードは、言葉やコミュニケーションが生み出すトラップであり、特に洗脳や敬意の過剰、あこがれ・自尊などとも関係し、「悪魔」のカードより弱くても、身近にあるトラップとして検証できます。
そしてまた、こうした罠を抜け出る仕掛み自体もカードにあり、それが出口とか解決を呼ぶものになります。
そのことを一枚のカードで象徴すれば、「吊るし」となるのですが、「吊るし」はおそらく、一般のタロットでは、「吊された男」とか「吊され人」とかの名前で、それこそ逆に、罠にはまって身動きがとれない状態としてしか見えないかもしれません。
それでも、そこには出口や解決策があると見ることが可能です。
そして、この世界全体が罠そのものとも言えるのですが(笑)、そのことは難しく、通常の人では混乱しますので、講座などでお話することにしています。
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